/2011年4月号

トップ > マガジン > 2011年4月号 > マンハッタンの空中公園 (全文掲載)


定期購読

記事ランキング

ナショジオクイズ

Q:写真は高地に生息するユキヒョウですが、ある部分が比率的に大型ネコ科動物で最長です。その部分とは?

答えを見る

ナショジオとつながる



特集

マンハッタンの
空中公園

APRIL 2011

仕掛け人は二人の青年

 しかし、公園誕生における真の立役者は、二人の青年だ。1999年、彼らはハイラインの将来について討議する市民集会で初めて顔を合わせた。ジョシュア・デビッド(当時36歳)は、ハイライン中央部に近い西21丁目に住むフリーランスのライターで、ロバート・ハモンド(当時29歳)は、ハイラインの南端から数ブロック離れたグリニッチビレッジに住むアーティストだった。

 「新聞でハイラインが解体撤去されるという記事を読み、保存しようとする人はいないのだろうかと思いました」と、ハモンドは言う。「私はあの鉄骨の構造物や鋲(びょう)、廃墟の雰囲気が大好きだったので、どこかの市民団体が保存を提案するだろうと思っていました。その後、この件が地域の理事会で議題に上っているのを知り、様子を見に行ったんです。そこで隣に座っていたのがジョシュアです。でも会場内で保存に関心があるのは、私たち二人だけでした」

 デビッドはこう語る。「鉄道会社も代表を送り込んで再利用のプランを提示しましたが、これが撤去推進派をひどく怒らせました。それがきっかけで、私はロバートと話すようになりました。二人とも撤去推進派の人たちがそこまで激怒する理由がわからなかったのです」

 二人は鉄道会社の担当者に頼んで、現地を見学した。「ハイラインの上で目にしたのは、マンハッタンの真ん中で、2.5キロにもわたって生い茂る野生の草花でした」と、ハモンドは言う。

 デビッドがこうつけ加えた。「ニューヨーカーはいつも開放的な空間を探し求めています。狭いワンルームのアパートに住んでいる人間にとって、広い場所はあこがれなのです」

 広々とした空間に驚いた二人は、ハイラインの解体を阻止する決意を固め、1999年秋、非営利団体「フレンズ・オブ・ハイライン」を設立した。だが、初めから壮大な夢を描いていたわけではない。「解体を阻止するため、とにかく市長と戦うつもりでした」と、ハモンドは話す。「でもやがて、ここに新しい公共スペースを作れるのではないかと思い始めたのです」

 フレンズ・オブ・ハイラインの歩みはゆっくりとしていた。設立2年目を迎えた2001年、同時多発テロが起きて世界貿易センタービルが崩壊した。ハモンドは語る。「あの時点では、誰もハイラインのことなど気に留めないと思っていました。でも、グラウンド・ゼロの設計過程で都市計画への関心が高まり、私たちのプロジェクトに興味を持つ人が増えていきました。これこそ自分たちにできる良いことなのだと、皆が考えるようになったのです」

 2002年、フレンズ・オブ・ハイラインは調査会社に経済効果の分析を依頼した。すると、市の主張とは反対の結論が出た。ハイラインが公園になれば、周辺地域に利益がもたらされ、発展につながるというのだ。その少し前には、フランス・パリのバスティーユ広場付近の高架が公園に生まれ変わり、大成功を収めていた。これがハイラインの再生を考える上で重要な前例となった。パリの手法をそのままニューヨークに当てはめることはできないが、成功例があることで、デビッドたちの運動に対する信用がずっと高まったのだ。二人は、ハイラインを再利用するアイデアが実現するかもしれないという手応えを感じ始めた。

 2003年、デビッドとハモンドはハイラインの未来像を描いたアイデアと設計図を幅広く募集する「アイデア・コンペ」を実施した。市民から数十件ほどの応募があれば上出来だと思っていたが、最終的には、36カ国から720件という、予想をはるかに超えるアイデアが寄せられた。

Back2next


ナショナル ジオグラフィック バックナンバー