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特集

南部スーダン
独立への苦闘

NOVEMBER 2010


 オスマン帝国が1880年代初めに撤退すると、スーダンは短い独立時代を経て、99年に英国の統治下に置かれた。英国は南北に分けて分割統治を敷いた。全域に軍隊を駐屯させる代わりに、ハルツームに総督府を置いて、各地の部族の指導者に限定的な権限を与えたのだ。北部ではイスラム教とアラビア語を、南部ではキリスト教と英語を奨励した。さらに、北部を優遇して、南部は貧しいままに放置した。こうした歴史を振り返れば、誰でも疑問に思うだろう。そもそもなぜスーダンは単一国家になったのか。

 一つの理由は、やはり地理的な要因だ。ナイル川沿いに異なる文化をもつ諸部族は、時には衝突しながらも、互いに交流をもった。ナイル川はこの地域の交易、風土、さらには政治を形づくり、南と北をつなぎ止める役目をしたのだ。一方、英国はナイル川河口のスエズ運河を押さえる必要があった。スエズ運河は、英国にとって重要な植民地であるインドと本国を結ぶ航路だったからだ。スエズ運河を支配するには、ナイル川を支配する必要があった。

 1950年代半ばに英国が撤退すると、スーダンは内戦状態に陥った。60年代には南部の武装勢力が北部の政府に激しく抵抗し、50万人もの死者を出した。72年にいったん内戦は終結したが、対立の火種は消えず、その後も南北とも次の戦いに向けて準備を進めた。

 83年に第2次内戦が始まる前、比較的平穏だった時期に、首都ハルツームの中央政府が、水不足に悩むエジプトと協力して、南部で全長360キロのジョングレイ運河の建設に着手した。ナイル川は、南部スーダンの広大な平原地帯に入ると、スッドというアフリカ最大級の湿原を形成する。スッドでは毎年、水が引いた後に牧草が茂り、南部の諸部族が昔から放牧を行ってきた。運河はこの大湿原を切り開いて川の水を北に供給するものだった。巨大な掘削機が持ち込まれ、立ち尽くす部族の男たちの目の前で、牧草地がずたずたにされた。

 第2次内戦が始まると、反政府組織「スーダン人民解放軍」(SPLA)が結成された。SPLAは自分たちの力を誇示しようと、ジョングレイ運河の建設本部を襲撃し、工事を中断させた。

 混乱は長引き、多数の犠牲者を出した。水面下での交渉が実を結んで、ようやく包括和平合意がまとまったのは、2005年のことだ。南部スーダンは限定的な自治権を得て、政教分離に基づく独自の憲法を制定。独自の軍隊と通貨ももてることになった。

 そして今、スーダンは危うい岐路に立っている。和平合意に基づいて、2011年に南部スーダンで分離独立の是非を問う住民投票が実施される。その選択しだいでは和平を維持できるが、一つ間違えば、再び混乱に陥りかねない。

 それにしてもなぜ北はこれまで、南を厄介払いしなかったのだろう。その背景にも、地理的な要因がある。スーダンの石油埋蔵量のかなりの部分は南部にあるが、石油精製施設はすべて北部にあり、北部の中央政府が石油収入を分配しているのだ。

解放軍に入隊、エチオピアへ

 ロゴチョが9歳だった時代に戻ろう。ロゴチョは父親から牛を与えてもらえなかった。牛はムルレの少年に当然与えられる財産で、牛がなければ結婚できない。「わしの目の黒いうちは、おまえは嫁をもらえない。牛の世話をしないからだ」と父親は言い放った。

 その後、妹の一人がマラリアで死に、別の一人が赤痢で死んだ。家畜にも病気が広がり、やがて父親も他界した。

 家畜と夫を失って、母親は途方に暮れた。女手一つでどうやって子供たちを養えよう。ロゴチョは遠くにいるおじのもとに送られた。だが、牛の群れどころか、ヤギの群れを追うこともできないロゴチョに、おじはあきれ返った。何だこの役立たずは。妙な荷物を押しつけられたものだ。おじはことあるごとにわめき散らし、ロゴチョに怒りをぶちまけた。

 そんなある日、SPLAの兵士が食べ物を求めて、ロゴチョが寝泊まりしていた場所に現れた。すでに第2次内戦が始まり、SPLAが運河の工事を止めた後のことだ。ロゴチョが兵士に肉を与えると、お礼に銃弾を5発くれた。3発をおじに渡し、2発をとっておいて、あとで銃を借りて空に向かって撃ってみた。

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