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特集

アステカ
解明される王国の謎

NOVEMBER 2010


 「メキシコには至る所に過去が息づいています」と、ロペス・ルハンは言う。その言葉どおり、アステカ王国の遺産は近代的な国のすぐ足下に眠っている。

 マヤ文明は現在の中米数カ国にわたって繁栄したが、アステカ王国の勢力範囲は現在のメキシコとほぼ重なっている。メキシコもその歴史を祭り上げることに熱心で、国旗の中心に描かれているのはアステカ時代のワシだ。メキシコの二大航空会社のロゴにも、同様のワシが使われているし、アステカ銀行やテレビ・アステカもあれば、サッカーのメキシコ代表チームはワシをあしらったユニフォームを着て、アステカ・スタジアムをホームとする。国の中枢であるメキシコ市は、アステカの都市国家テノチティトランの上に建設されていて、王国の不屈の魂を有形無形に受け継いでいる。

 だが、アステカ人を狭義の象徴的な存在としてとらえるのは誤解を生む。そもそもアステカ王国とは、テノチティトラン、テスココ、トラコパンという3つの都市国家の同盟であり、ヨーロッパ人に征服されて滅ぼされるまで1世紀弱しか存続しなかった。歴代の王は支配地を恐怖に陥れ、強い反感を呼んだが、その統治は短命に終わったのだ。古代ローマやインカ帝国と異なり、アステカの王たちは支配地の隅々にまで神殿を建立したり、文化的伝統を植えつけようとはしなかった。被征服者たちが貢物さえ進呈すれば自治を許し、ときおり力を誇示することで、支配体制を維持していた。

 アステカ人が力を注いだのは、首都テノチティトランの整備だ。ただこの都にしても、習俗や図像表現、宗教的慣習はそれ以前の文明からの借用が多かった。一部の研究者から「安上がりな帝国」と評される所以(ゆえん)である。ロペス・ルハンの父で、メソアメリカ研究者のアルフレド・ロペス・アウスティンは「アステカの文化が完全な独創だったというのは大きな誤解です。そんなことはなかった」と語る。

 それだけでなく、“血に飢えたアステカ人”というイメージも誤解である。征服したスペイン人たちが、大げさに話を伝えたのだ。神殿をひとつ建立するのに8万400人を生け贄にしたため、メキシコ中部から人間がいなくなったという逸話があるが、一部の研究者はヨーロッパ人の作り話と断定してはばからない。ただ完全に否定するのも行きすぎというものだ。メキシコ市の地下には多孔質で水を通しやすい岩盤があるが、ロペス・ルハンはそこを15年前から分析している。「血液反応がそこここで出ます。生け贄を捧げる際に使った石やナイフ、127体の遺体も発見されました。人身供犠を行っていたことは確かです」と、彼は説明する。

 「けれども」と、ロペス・ルハンは急いで付け加えた。古代世界で人身供犠は当たり前のように行われていたのだ。アステカ以前にも、マヤをはじめとする多くの文明に同様の慣習があった。「それは、民族というより、あの時代の慣習だったのです。一触即発の事態には、神々の怒りを鎮めるために人命を捧げるというのが、当時の宗教的常識でした」と、ロペス・アウスティンは説明する。

アステカはどこから来たか?

 アステカ王国は何もないところから始まった。最初のアステカ人(メシーカ)は北から移り住んできた。父祖の地は「アストラン」だったと伝えられているが、場所は特定されておらず、伝説上の土地とも考えられている。彼らは強大なトルテカ人の言葉であるナワトル語を話した。トルテカ人はメキシコ中部に君臨していたが、その支配は12世紀に終焉(しゅうえん)を迎えていた。偉大なトルテカ人とアステカ人を結び付けるものは言葉だけである。メキシコ盆地に集落をつくって暮らしていたアステカ人は少しずつ追いやられ、テスココ湖に浮かぶ、誰も住みたがらない島にたどり着いた。1325年、彼らはそこをテノチティトランと命名した。テノチティトランはただの沼地で、飲料水もなければ、家を建てるための石や木材もなかった。新しい住民たちはみすぼらしく、著名な研究者ミゲル・レオン=ポルティージャに言わせると「ほとんど無教養に等しい」ありさまだったが、「不屈の意志」で島を開拓していったのだ。

 島に住み着いたアステカ人は、かつて権勢を誇った都市国家であるテオティワカンやトゥーラの遺跡を掘り起こし、先人の知恵や技術を拝借した。こうして1430年には、テノチティトランはかつての都市国家をしのぐ規模となった。埋め立てにより土地を広げ、送水路を敷設し、運河や堤道で四等分された町の中心には階段状のピラミッドが築かれて、頂上には二つの神殿がそびえていた。ただ、そこにアステカ人独自の要素は皆無だった。ここが重要な点だ。

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