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エルトゥールル号 SEPTEMBER 2010 |
![]() 文=髙橋 大輔 写真=赤木 正和 120年前、紀伊半島沖で遭難したトルコの軍艦、エルトゥールル号。日本とトルコの友好の礎となった、地元住民の救助活動を振り返る。エルトゥールル号。その聞きなれないトルコ軍艦の名前を多くの日本人が耳にしたのは1985年の出来事がきっかけだった。 当時、中東ではイラン・イラク戦争が5年目を迎えていた。戦況は泥沼化しつつあり、3月に入ると、サダム・フセイン前イラク大統領は唐突な行動に出た。2日の猶予の後、イラン領空を通過する航空機を無差別に撃墜すると発表したのだ。テヘランに駐留していた外国人は半ばパニックとなり、一斉に避難を始めた。ところが日本から民間機の乗り入れがなかったため、多くの日本人は脱出困難に陥ってしまった。孤立無援の人々に戦火が迫る。 そのとき日本人のために救出機を特別に派遣したのがトルコだった。日系商社からの要請に当時のトルコ首相が応じたものだが、現地にはいまだ脱出できないトルコ人もいた。それにもかかわらず、トルコ政府は日本人全員を無事に救出したのだ。なぜだろう? 多くの人が感謝とともに理由を知りたがった。後に関係者がほのめかしたのは、100年ほど前の海難事故だった。トルコにはエルトゥールル号遭難のときに受けた日本への恩義があったという。 日本とトルコの絆を象徴する出来事として知られるようになった遭難事故とは一体どのようなものだったのだろう。 遭難の現場へ エルトゥールル号はオスマン・トルコ皇帝アブデュルハミト2世が明治天皇へ勲章などを届けるために派遣した船だった。 1889(明治22)年7月イスタンブールを出航。老朽化が甚だしかった船は11カ月もかかってようやく横浜に到着した。日本で互いの親交を深め、約3カ月後に帰途についた。ところが1890(明治23)年9月16日、横須賀から神戸へ向かう途中で嵐に遭遇し、凄惨な事故が発生した。 全長76メートルもある木造の巡洋艦は、コントロールを失って座礁した。船内に水が流れ込んでエンジンが爆発し、ほとんどの人が一瞬のうちに命を落とした。かろうじて生き残った者は海に投げ出されてしまった。 高波に翻弄される彼らにとって、遠くにぼんやりと見える灯台が生きる望みのすべてだった。しかし運良く岸にたどり着いても、灯台は海面から30メートル以上もある崖の上だ。断崖を登る途中で力尽きたり、手や足を滑らせたりして転落死した者もいたに違いない。結果、横須賀出港時563人とみなされる乗組員のうち、生き残ったのはわずか69人という大惨事となった。 2010年6月。わたしは本州最南端の町、和歌山県串本町へと出かけた。事故はどのようなところで起こったのだろう。現場は紀伊大島の東の外れに位置している。樫野埼灯台のらせん階段を上ると、展望台から広い海が見渡せた。海面にはいくつもの岩礁が突き出し、波がぶつかっては砕け散る。白いしぶきは海の青さをよりいっそう際立たせている。 沖合に浮かぶ岩場の上では、釣り人たちがうねる波間に糸を垂れていた。渡し舟で上陸したのだろう。ちょうどその横を漁船が左右に揺さぶられながら通過していった。 遠くから見ると、岩礁にかろうじてしがみついている人の姿はあまりにも心もとなく、嵐の夜に命を落とした遭難者のことが現実味を帯びて思い起こされてきた。69人も生存者がいたことはむしろ奇跡的なことではなかったか。 |