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エルトゥールル号
120年の記憶

SEPTEMBER 2010


懸命の救出活動

 嵐が去った9月17日早朝。樫野埼灯台付近で遭難者を最初に見つけたのが漁師の高野友吉さんだった。孫の永田嘉代子さんは子どものときに聞かされた話を今も覚えている。

 「おじいさんは身長が150センチぐらいしかない小さい人での。草むらから大きな外国人が現れたときは、思わず腰の鉈(なた)を抜きそうになったって」

 言葉も通じないまま、傷ついた外国人に連れられて岬に行くと、高野さんは地獄絵のような現実を目の当たりにした。粉々になった船体や数え切れないほどの死体が波間に漂っている。岩礁の上で助けを求めている人。木にしがみついて絶壁をはい登ろうとしている人。高野さんはあわてて集落に駆け戻り、人々に急を告げた。当時わずか60戸ほどしかなかった樫野では、集落を挙げての救出活動が始まった。永田さんは祖父から聞いた話を続ける。

 「木にロープをかけて、大きな外国人を1人引き上げるのに、2、3人がかりでやったって。歩ける人には『がんばれ、がんばれ』って声をかけてね」

 助かった人は近くの大龍寺や樫野小学校(いずれも当時)に保護された。皆、びしょぬれになって着る物を失い、空腹に喘(あえ)いでいた。樫野の人々は甘藷(かんしょ)(さつまいも)や鶏、浴衣や子供用の着物まで差し出した。

 知らせを受けた当時の大島村長・沖周の対応も早かった。午前10時半に通報を受けるや郡役所と県庁に報告し、自ら医師や巡査、役場職員らを引き連れ、救援用の食糧も携えて1時間後の11時半に現地入りしている。

 沖村長は故国オスマン帝国に実情を報告することが急務だと判断した。偶然居合わせた商船防長丸と交渉し、無傷だった2人のトルコ人を神戸へ送った。

 翌18日、樫野だけではなく、須江や大島地区など全島の住民を動員して死体の収容作業に着手する。検視が終わった遺体は現場近くに埋葬された。

 樫野にある施設では狭すぎて十分な治療ができないことがわかると、負傷者を5キロメートル以上離れた島の西側にある蓮生寺に移動させた。沖は日記にこう書いている。

 『患者ノ軽重ヲ区別シ、各自ニ番号標ヲ交付シ、之ニ看護者数十人ヲ置キ、各受持ヲ定メ・・・』(「難事取扱ニ係ル日記」)

 傷の程度を調べ、患者ごとにきめ細かく手厚い看病をしている様子が伝わってくる。いやそればかりでない。日記はこう続く。

 『士官及ビ壮健者へハ各室ニ小使ヲ付シ用ヲ弁ゼシム、食物ハ特ニ賄人ヲ定メ、其望ム所ヲ調度シ、其他請求ノ物品ハ時々之ヲ与フル』

 驚くべきことに、負傷者の対応に忙殺されていたはずの彼らは、無事だった者に対しても不自由なく過ごせるように食事ばかりか、欲しいものが手に入るように便宜をはかっていた。

 多数の同胞を一度に失ったショックや異国の地での不安や恐怖など、生き残ったトルコ人たちの精神的な打撃は計り知れなかった。島民の対応は応急措置にとどまらず、心のケアまで行うようなものだったのだ。

 事故発生から4日目の9月20日。1隻の艦船が大島港に入港した。沖村長が神戸へ急派していたトルコ人の訴えに協力を申し出たドイツ軍艦ウオルフ号だった。

 トルコ人たちは神戸へ向かい、10月11日に日本の軍艦金剛と比叡で帰路についた。ユーラシア大陸の東から西へ。長い航海の末、再び故国の土を踏んだのはその年の年末のことだ。

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