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特集

絶望のソマリア

SEPTEMBER 2009


民族の亀裂を深めた植民支配

 ソマリアは昔から紛争にたたられてきた。国土面積は65万平方キロ(日本の国土の約1.7倍)。ほとんどが不毛な乾燥地帯だ。この地域に暮らしてきたソマリ族は、牧草地と水という希少な資源をめぐって、古くから絶えず争ってきた。ソマリ族の民族誌を研究するI・M・ルイスによると、ソマリ族は「単一の民族集団としてはアフリカ屈指の大集団を成している」という。伝統的にヤギとラクダとウシの群れを率いて遊牧生活を送り、イスラム信仰とソマリ語という共通のつながりがあった。

 19世紀末に英国とイタリアの植民地になるまでは、ソマリ族は今日のジブチやケニア北東部、エチオピア東部も含めて、「アフリカの角」と呼ばれる一帯の大部分を生活の場としていた。強烈な民族意識とともに、遊牧民らしい独立心をもつ。政府をあてにするのは、誇り高いソマリ族の流儀ではない。

 ソマリアの人々を一つにまとめる一方で、ときには分断する要因にもなってきたのは、複雑な氏族制度だ。主要な五つの氏族、ダロド、ディル、イサク(ディルの小氏族との見方もある)、ハウィエ、ラハンウェインが、特定の地域を長く支配してきた。これらの氏族の下にはさまざまな小氏族があり、それらがまたいくつもの集団に枝分かれしている。氏族集団同士が平和的に共存することもあれば、散発的に戦闘を繰り返すこともあった。

 「植民地になる以前から、ソマリアの遊牧社会では紛争がよく起きていました」と、米国ワシントンにある国防大学の研究者アンドル・ルサージュは話す。「よその集団の家畜を略奪することもありましたが、そうした攻撃は、氏族の長老の許可を得て、若者たちが組織的に行うものでした。戦闘で死者が出ることはあっても、女性や子どもが犠牲になることはめったになく、村が破壊されることもありませんでした。確かに、女性の性器切除の習慣や医療施設の不足など問題はありましたが、無政府状態だったと思うのは、大間違いです。非常に統制のとれた社会でした」

 氏族集団を土台とした社会秩序が崩れ出したのは、英国とイタリアが入ってきてからだ。ソマリランドを領土とした英国よりも、南部を支配したイタリアのほうが強権的な統治を行った。イタリアは交易を牛耳るとともに、自分たちに忠誠を尽くす氏族の長老を優遇し、反抗的な者を罰して、氏族間の対立をあおる分断統治を行った。そのため、もともとあった紛争解決の仕組みが機能しなくなった。

 1960年に英国とイタリアが撤退すると、ナショナリズムの熱狂がソマリア全土を包んだ。ソマリランドとソマリアは統合し、新生国家の建設をめざす。だが、民族意識が高まったのもつかの間、植民地時代に亀裂の深まった氏族間の対立が人々を引き裂いた。感情的なしこりの絡む勢力争いは、権力の空白を生むこととなった。

 1969年、それに乗じて政権を奪ったのが、モハメド・シアド・バーレ将軍だ。ダロド氏族に属するバーレは、残酷な独裁者ながら、巧妙な統治を行った。

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