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アラブのキリスト教徒

JUNE 2009


 カウンターの向こうで店番をしているリリアーネ・ゲアゲアによると、私がその日最初の客だという。「客足はすっかり遠のいたわ。ここから逃げ出そうと、みんなお金をためるのに必死なの。私がこの国で生まれて45年になるけど、いつも戦争ばかり。ベイルート大学に通っている娘が卒業したら、この国を出るように言うわ。ここ以外ならどこでもいいの。そのときはお母さんも連れていってねって」

 ベイルートでイスラム教徒とキリスト教徒が戦闘を続ける最前線から車で東に数時間走り、シリアの町を訪ねた。ここでは、いまでこそ反目し合っている二つの宗教が、かつては密接な結びつきを持っていたことがよくわかる。キリスト教徒とイスラム教徒がおたがいの婚礼や葬儀に出席し、それぞれの教会や礼拝堂に参拝したり、キリスト教修道院のなかには、修道士がイスラム流に平伏して祈りを捧げたりもする。ビザンチン帝国時代から続く習慣で、イスラム教徒が礼拝で平伏するのは、このやりかたをまねたのではないかと言われている。一部の教会は、いまでもアラム語やシリア語など、イスラム教よりも古い時代の言葉でミサを行う。

 ある日の午後、私は崖の上にあるセドナヤの聖母修道院を訪ねた。シリアにあるギリシャ正教の修道院で、紀元547年に創設されて以来、歴史の荒波を乗り越えてきた。私が修道院の建物に足を踏み入れると、キリスト教徒だけでなく、イスラム教徒の家族もたくさん集まっているではないか。癒やしの力を持ち、豊かさを約束してくれる聖母マリアは、1500年近くのあいだ宗教に関係なく人びとに救いを与えてきたのだ。

 ろうそくの明かりだけの薄暗い内部に目が慣れてきたとき、毛布に包んだ赤ん坊を抱いた女性が祭壇の前に進み出た。聖像が並ぶ祭壇の下には、聖ルカが描いたとされるマリアの肖像画が隠されており、外からは見えないその絵が人びとの深い信仰の対象となっている。

 女性はしっかり目を閉じ、祈りの言葉をつぶやきながら、赤ん坊の頭を祭壇に押し当てた。祈りが終わったあと、修道院の外でこの女性と家族に話を聞いたところ、金曜日にいつものモスクで礼拝をすませたあと、病気の赤ん坊のためにダマスカスから車を走らせてきたという。

 一家は外国人の私が話しかけてきたことに警戒したのか、マフムードという赤ん坊の名前しか教えてくれなかった。緑色の毛布に包まれたマフムードは生後7カ月で、目を閉じたまま身じろぎひとつしない。顔色も黒ずんで、呼吸もろくにしていないようだ。「医者からは、米国で手術を受ける以外に方法がないと言われました。でもそんなことは無理なので、代わりに奇跡を求めているのです。私はイスラム教徒ですが、遠い先祖はキリスト教を信じていました。だから私は、イスラム教でも、ユダヤ教でも、キリスト教でも預言者を信じていますし、マリア様を信じています。だからこの子を治してくださるようお願いしに来たのです」と母親が説明する。

 こんな場面に遭遇すると、レヴァントでは、イスラム教と他の宗教が平穏に共存してきたことを実感する。636年頃、イスラムのカリフであるオマルはビザンチン帝国からシリアを奪った。オマルはキリスト教を保護し、信者はそれまでどおり教会で祈ることができたが、多くのキリスト教徒がイスラム教に改宗した。階級が厳しく定められ、抑圧的なカトリック教会よりも、個人と神とのつながりを大切にするイスラム教に魅力を感じたのだろう。その後は歴代カリフがキリスト教徒に重税を課したこともあって、特に貧しい村人たちはこぞってイスラム教徒になった。そのころも現在も、アラブ系キリスト教徒は神のことをアラーと呼ぶ。だから当時、キリスト教からイスラム教への改宗は、一大事ではなく気軽な感覚だったのだろう。

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