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特集

世界遺産 九寨溝
神秘の谷へ

MARCH 2009


 標高1800メートルほどに位置する九寨溝の入り口から上り坂を進むと、土産物屋や食堂が集まる諾日朗があり、ここで道は二手に分かれる。左の道を進めば、手つかずの自然が残る細長い湖、長海へ。右の道を進めば、「原始森林」がある。これは観光パンフレットに記されている言葉で、「観光資源としての可能性が認識されたために危うく切り尽くされるのを免れた林」と言い換えてもいいだろう。無計画な伐採により一時は自然破壊の危機にさらされていた九寨溝だが、その後、自然保護区に指定され、1992年にはユネスコの世界遺産に登録されて中国を代表する景勝地となった。

 かつて九寨溝には、ジャイアントパンダが数多く生息していたが、今はほとんどいない。中国政府はパンダを「わが国の宝」と声高に宣言しているものの、無計画な森林伐採や、1990年代に起きた竹の大量枯死によって、パンダの生息域は次々と失われていった。ちょこんと座り込んで竹をかじるパンダの姿は、自然保護活動のシンボルとなってきた。だが、“自然保護”という概念はもともと、手つかずの自然やそこに息づく野生生物、さらには自然がもつ美しさを守ろうなどと考えたこともない人々にとっては、まったく新奇で、理解しがたい考えなのだ。北京動物園でこんな場面に出くわした。喉の渇きに苦しむクマが水も与えられず、ジャッカルやオオカミは厳しい暑さに耐えきれずに喘いでいた。何より驚いたのは、苦しむ動物たちを見学していた中国の人たちが、かわいそうだと思ってもいないように見えたことだ。

 中国政府主催の晩餐会で、クマの手のような野生動物の料理を供することが禁じられたのは、つい最近のこと。インドに亡命中のダライ・ラマもちょうど同じ頃、トラやヒョウの毛皮を着るのをやめるよう支持者に説いた。だが、政府や指導者が命じれば、自然保護が根づくわけではない。九寨溝自然保護区の主任科学者から聞いた話では、近隣の松潘県では、希少なユキヒョウの毛皮が今でも公然と売られているという。値段はおよそ9000円で、平均的な労働者が1カ月に稼ぐ賃金とほぼ同額だという。

 九寨溝の剳如溝と呼ばれる峡谷で、私は3人の男に出会った。この峡谷は樹正溝ほど開発が進んでおらず、現在でもパンダが姿を現すことがあり、谷底を流れる川は美しい岩々の間を勢いよく駆け下っている。見上げれば高さ300メートルほどの荒々しい崖がそそり立ち、さらにその背後には聖なる山、剳依剳嘎神山がそびえている。その男たちは上流の保護区で違法に採取した薬草を、袋に詰めて担いでいた。九寨溝にやって来る観光客(9割が中国人だという)に売るつもりらしい。

 この谷では、パンダのポスターが至る所に貼られている。だが、黒い眼帯をつけたようなその目は、かわいらしいというより、涙ににじんでいるようで悲しげだった。九寨溝を訪れる数百万人の観光客は、清冽な水や山を吹きわたる風に乗って飛ぶ鳥たちを一目見ようと、煤煙を吐き出す工業地帯やぼた山に囲まれた鉱山地帯からやって来るのだ。彼らもチベット高原の果てしない空の下に立てば、自然破壊が深刻化する前にそれを保護しようとする国家の政策をおのずと理解するだろう。しかし、数百万人もの観光客が、手つかずの自然を損なうことなく、その素晴らしさを体験することなど、本当に可能なのだろうか。

 かつてパンダの生息域はミャンマーにまで広がっていた。だが今、動物園で飼われているパンダの多くは、人工的な環境のなかで、生気なく寝そべっている。その姿はまるで敷物の毛皮だ。その口元はかわいらしいというより無表情だし、森ではカモフラージュとして役立つ白と黒の体毛も、生息域の森がほぼ消えてしまった現在、悲しげに見えるばかりだ。

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