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北極探検
二つの物語

JANUARY 2009


 厳しい寒さから隊員たちを守るため、ナンセンは厚いフェルトの布やトナカイの毛皮、細かく刻んだコルク材、タールなどで船体を覆った。日中でも太陽が姿を現さない冬の極夜に備えて、発電用の風車を取りつけ、アーク灯が灯るようにもした。船室には、居心地の良いサロンや、ナンセンが厳選した600冊ほどの書籍が並ぶ図書室もあった。

 船が完成すると、オスロ港には大勢の支持者が集まり、ナンセンの妻エヴァが船をフラム号と命名した。そして1893年の夏、ナンセンは13人の隊員と5年分の食料とともにオスロを出発し、バレンツ海に面したバルデを経由してノボシビルスク諸島を目指した。

 ナンセンの期待通り、9月になるとフラム号はさっそく海氷に閉じ込められた。氷は猛烈な力で絶え間なく船体にぶつかり、引っかいて、恐ろしい音を立てる。「耳をつんざくような音がし始め、船全体が振動した」と、ナンセンは書いている。だがフラム号は押し寄せる海氷の圧力をなんなく耐え抜き、氷の上に無傷のまま乗り上げることに成功した。

 こうしてフラム号は流氷に乗り、1日に数キロという実にゆっくりとしたペースで北極点に向けて進んだ。オスロを出発してから1年半ほどは、ホッキョクグマに襲われて隊員が負傷し、犬が2頭殺されるなどの事件はあったものの、航海は不思議なほど平穏だった。隊員たちは新聞を定期的に発行し、運動不足を解消するためにスキーで遠足に出かけたりした。そして、水深を計測し、測量を繰り返した。しかし、船上での暮らしが退屈なことに変わりはなかった。ある隊員は「地の果てで送る修道士のような暮らし」と悪態をついたが、隊員たちは物質的な不自由を感じていなかったようだ。「私自身は、これほど悠々自適な生活を送ったことがない」と、ナンセンは書き残している。しかし、1895年の初めには、このままでは北極点に到達できそうもないことが明らかになっていた。

 目標を達成するためには、ナンセンは船を降りて、犬ぞりで氷上を進むしかなかった。彼は同行者としてヒャルマー・ヨハンセンを選び、1895年3月、フラム号を後にした。フラム号が前途の無事を祈って祝砲を撃ち鳴らすなか、ナンセンとヨハンセンはスキーを履いて3台のそりを引き、2艘のカヤックを運びながら、28頭の犬とともに北を目指した。

 出発して間もなく、二人は数々の困難に直面した。複雑に入り組んだ氷原に行く手を阻まれ、装備は不具合を起こし、流れが速く不安定な氷により、思うように前進できなかった。食料が乏しくなると、体力の衰えた犬を殺してほかの犬の餌にした。4月になって、二人は北緯86度14分にまでたどり着いた。北極点まではまだ364キロも離れていたが、そこは、それまで誰も足を踏み入れたことのない地だった。

 ナンセンは妻のエヴァに生還を約束していた。彼にとって、命がけで北極点に到達して名声を獲得するよりも、生きて故国に戻ることの方がはるかに重要だった。慎重に考慮した末、ナンセンは引き返す決断を下した。二人が目指したのは、すでに遠くまで漂流しているであろうフラム号ではなく、1000キロ南にあるフランツ・ヨシフ諸島だった。ナンセンとヨハンセンは不安定な氷の上を移動することとなる。危険をきわめた二人の旅は、極地探検の歴史上、最も悲惨で厳しいものであっただろう。その後、何カ月にもわたって、二人は犬を次々と殺して、食料とした。時には、犬の血を煮詰めたものをすすり、飢えをしのいだという。

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