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特集

中国の真実

MAY 2008

文=ピーター・ヘスラー 写真=フリッツ・ホフマン

界一の経済大国へと成長の一途をたどる中国。未来を担う若者たちとともに時代の変革期を過ごした中国在住のジャーナリストが、この国のいまを語る。

空から見た中国
写真家のジョージ・スタインメッツがパラグライダーやハンググライダーに乗りこみ、中国の地理や文化をとらえた写真を、スライドショーで楽しもう。

動画翻訳

写真家のジョージ・スタインメッツです
ナショナル ジオグラフィック誌の特集のため昨年 中国へ3回取材に行きました
今回の特集では中国の地理を撮影したいと考えました
中国の面積は米国と同じくらいで地理や気候も似ています
非常に個性豊かな国土です

万里の長城を撮ったこの写真は私にとっては重要な意味があります
この地で雪が降るのは年に1~2回で降った雪は わずか1日で溶けてしまうため
こうした光景を撮影するのは困難なのです
雲南省での取材中に“昨夜 万里の長城に雪が降った”と連絡が入ったので
私たちは急いで移動し18時間後には万里の長城に着きました
そして夜明けには長城の上空から撮影を行ったのです
空撮するにあたりモーター付きのハンググライダーを使用しました
寒さで足が凍えたパイロットが着陸時にペダル操作を誤り
機体が地面に激突しましたが幸い 二人ともケガはありませんでした

当初は 中国最大の製鋼所を撮影するためヘリコプターを使う予定でした
巨大な工業施設を空からとらえたら面白いと考えたのです
しかし ヘリコプターの使用には莫大な費用と人手が必要だったため
モーター付きのパラグライダーで空撮を行うことにしました
パラグライダーで空を飛ぶのは容易ではありません
誰も飛んだことのない辺境の地は なおさらです
新疆ウイグル自治区の小さな町で事故が起きました
離陸直後 パラグライダーが右に傾き木に激突したのです
私は 顔の傷口を縫う手術を受けましたが体は元気だったので 仕事を続けました

取材をするなかで目を奪われた光景がありました
雲南省南部のルオピンという地域です
石灰岩の多い地域にできるカルスト地形が見られます
円錐形の岩石が形成されまるで小さな火山のようです
毎年数週間にわたり 菜の花が一斉に咲き谷一面の畑が 鮮やかな黄色に染まります
空撮を行うときは岩石の頂上辺りに高さを合わせました
撮影最終日は よく晴れた日でした
私はガソリンがなくなるまで飛び続け菜の花畑の中の空地に着陸しました

同心円状に造られた住宅がある地域を取材中 偶然見つけました
古い住宅が中心にあり村の人口が増えるにつれて
中心を囲む円は大きくなっていきます
黄河周辺から移住してきた客家の人々は外敵から身を守るため 村を壁で囲いました
外側の新しい住宅は 窓やドアが多く配管設備や電気もあります
中国の発展と呼応してこの村も大きくなったことが分かります

青海省のツァイダム盆地です当初は取材する予定はありませんでした
乾燥していて風が強く月を連想させる景色が広がっています
私が今まで見たなかで最も変わった風景の一つです
標高3000メートル近い場所だったので走って離陸するのは一苦労でした

青海省を撮影するにあたり 収穫の時期である秋を選び
綿花の収穫やトウガラシを乾かす様子を撮りました秋は非常に忙しい季節なのです

新疆ウイグル自治区のタリム川タクラマカン砂漠へと流れ出ます
秋になると 木々は一斉に鮮やかな黄色に染まります
幸運にも 取材に行った2週間はちょうど黄葉の時期と重なっていました
飛行したのは30キロほど続く 道路のない地域でした
危険なフライトでしたがそれでも やらねばならない時もあります

どうしても撮りたかったのが桂林のリー江沿いの写真です
毎日 朝と午後に空を飛びある日ようやく天気に恵まれました
本来 晴天が予想される時期だったのですが一週間の滞在中 晴れたのは一日だけでした
パラグライダーの操縦と撮影を同時に行うなんてばかげていると思うでしょうね
しかし私は この方法によって地上の風景をうまくとらえることができます
飛行中 操縦する手を止める30秒の間撮影に集中することができるのです

 英作文の授業で教え子たちが使っていた用紙は粗悪な安物で、その薄さときたらタマネギの薄皮並みだった。彼らのつづる英語は完璧ではなかったが、そのたどたどしい文章には、不思議に心に訴える力があった。あるとき、一人の青年がこう書いていた。「僕の両親は、貧しい農家の生まれです。木の皮や草まで食べたそうです。母は学校へ行かせてもらえませんでした。女だからです」

 別の学生は、母親のことをこんな風に書いていた。「母の髪はすっかり白くなり、歯もぼろぼろです。それでも相変わらず、身を粉にして働いています」。生徒たちは忍耐と勤勉さを尊び、家族について作文に好んで取り上げたが、テーマが国家にまつわる出来事になると、皆、戸惑った様子を見せた。

 「私は中国人ですが、この国がどうなっているのか、よくわかりません」と、エアランという名の女子学生が書いていた。「同じように感じている若者は、大勢いると思います」

 講師の私も同感だった。海外でボランティア活動を行う米国の平和部隊「ピースコー」の一員として、私は1996年に中国に派遣された。それまで中国に住んだこともなければ、中国語を学んだことさえなかった私でも、実際に暮らし始めると、この国が大きな変革期を迎えつつあるのを肌で感じた。

 当時、鄧小平は病気で先が長くないと噂されながらも、存命中だった。中国は世界貿易機関(WTO)に加盟していなかったし、香港は英国からの返還前で、北京市は2000年のオリンピック招致に失敗したところだった。長江の中流域では、世界最大の発電能力を誇る「三峡ダム」の建設が進んでいた。私は、フーリンという、ダムに沈む予定の小さな町で、教師の仕事を任された。教室の窓からは長江が望めた。大河を見るたびに、一体これをどうやって貯水湖に変えるのだろうかと、不思議に思った。

 当初、中国に関する私の知識の源といえば、薄っぺらな用紙につづられた学生たちの作文がほとんどすべてだった。一枚、また一枚と読むにつれ、さまざまなことが見えてきた。彼らは国の過去に対して、悲しみや怒りといったマイナスの感情を抱いていて、歴史をテーマにすると、たいていの学生は個人的な内容を書いた。19世紀のアヘン戦争など、遠い過去の出来事にさえ怒りを噴出させる。中国が長い間、衰退の道をたどることになった元凶は、外国による侵略だと信じていたのだ。

 ところが、話題が毛沢東による大躍進(農工業の大増産)や文化大革命といった、アヘン戦争より後の出来事となると、態度は一変する。ある時、ジョーンという学生は、慎重に批判を避けながらこう書いた。「もし私が毛沢東だったら、1966年から1976年の間に起こったような事態は、回避したと思います」。それでも、彼らは上の世代のことを非難したりはしない。

 別の学生、アイリーンは次のように書いていた。「今の視点で文化大革命の時代を考えると、親の世代の思想や行動は、視野が狭く、どこか狂信じみていると感じます。でも、客観的な目で見れば、理解できないわけではありません」。学生たちは、毛沢東後の中国に育った最初の世代だ。鄧小平による改革開放(市場経済化政策)が始まった1978年には、まだほんの赤ん坊だった。中国の総人口の8割が農村に住んでいた時代で、クラスのほぼ全員がその出身だった。なかには村で最初の大学進学者もいた。

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