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特集

宇宙を解き明かす
神の素粒子

MARCH 2008


 その働きを、彼はこんな風にたとえてくれた。ヒッグス場はどろどろしたぬかるみ、素粒子はそこを走り抜ける人々だ。クォークのように大きな長靴をはいた素粒子は、ぬかるみにはまって動きが鈍くなる。電子の靴は小さいので、ほとんど泥がつかずに軽々と進む。そして光子は靴をはいていないので、ぬかるみに足をとられることがない。つまり質量をもたない。

 ヒッグス粒子は原子を構成するほとんどの素粒子より質量が大きいと考えられており、陽子の100~200倍の質量とも言われる。このため、ヒッグス粒子を生みだすにはLHCのような巨大な加速器が必要となる。衝突の際のエネルギーを高くすればするほど、生成される素粒子の質量も大きくできるからだ。

 だが、ヒッグス粒子のような重い粒子は、ほかの大質量の素粒子と同じくきわめて不安定である。そのままの状態で長く存在し、検出できる素粒子とはちがって、ヒッグス粒子の寿命はごくごく短く、瞬時に他の素粒子に崩壊してしまう。LHCでは、ヒッグス粒子が崩壊してできるそれらの寿命の長い粒子を検出する。

神の素粒子を探しだす

 ヘルメットをかぶり、緊急用の酸素マスクを持てば、エレベーターでLHCの地下トンネルへ下りられる。私が訪れた時は、まだ建設工事の最中で、作業員が騒音を響かせながら電磁石を設置していた。とりつけられる電磁石は全部で1600個を超え、そのほとんどが長さ約14メートル、重さ約35トンもある。

 おもしろいことに、これらの電磁石の役目は粒子を加速することではない。別の装置が電波によって粒子を加速し、電磁石は粒子ビームを円形の加速器に合わせてわずかに曲げる役割を果たす。加速された粒子は光速に近い速度でまっすぐに進もうとするので、その進路は少しずつ曲げるほかない。1周27キロメートルという巨大な加速器が必要になるのはそのためである。

 粒子同士が衝突すると、エネルギーが質量に変わり、素粒子の破片が花火のように飛び散る。この破片のなかのヒッグス粒子そのものを検出することはできないが、ヒッグス粒子が崩壊してできた粒子なら検出できる。もしそれがうまく検出できれば、ヒッグス粒子が崩壊したことの間接的な証拠となるわけだ。

 だが、ヒッグス粒子を生成するような衝突は、およそ10兆回に1回と、きわめてまれにしか起きない。ほとんどの衝突では、物理的に価値のない現象が起こるばかりだ。衝突で生じる粒子、あるいはその破片は、検出器からのデータで確認できるが、ヒッグス粒子を発見するには「ペタバイト」(100万ギガバイト)級の膨大なデータを解析しなければならない。

 ヒッグス粒子が発見されたと判断する基準も、CERNにとって大きな問題である。その判断を下すためには、どれだけの証拠が必要となるのだろうか。CERNは、LHCを使って四つの大きな実験を予定している。そのうちヒッグス粒子発見を目ざしているのはATLASとCMSという二つの実験チームである。だが、もし一方でヒッグス粒子が検出され、もう一方で見つからなかった場合、ヒッグス粒子が発見されたと言えるのだろうか。

 LHCでビームの衝突実験が始まる瞬間は、素粒子物理学の中心が米国から欧州へ移る瞬間といってもいい。これまで米国は、世界の物理学をリードしてきた。現在、高エネルギー実験の競争で最前線を行くフェルミ研究所のテバトロン加速器は、重要な素粒子の発見に成功はしたものの、ヒッグス粒子をつくりだすにはエネルギーが足りないようだ。LHCの始動によって、欧州から米国への頭脳流出は逆流すると指摘する人もいる。

 また、LHCの建設コストは5000億円とも1兆円とも言われている。なかには、そんな実験にはまったく実用的な意味がないというひねくれた人もいるかもしれない。それだけの資金と頭脳を粒子ビームに注ぎ込むぐらいなら、もっとほかに有効な使い道があるはずだ、と。

 だが、私たちの暮らすこの文明社会は、いたるところで物理学と深く結びついている。原子核の中の素粒子同士はきわめて強い力で結合している。そのエネルギーが放出されて人間に向けられると、大都市でも瞬時に破壊されてしまうことは私たちが知る通りだ。私が今この文章を書いているノートパソコンの心臓として働くマイクロプロセッサーは、もし量子力学や、原子の風変わりな振る舞いが発見されていなかったら存在しなかった。書き上げた文章が掲載されるインターネットのWWWは、CERNのコンピューター科学者ティム・バーナーズ・リーによって発明されたものだ。

宇宙の美しい原理を追求して

 LHCはなぜ重要なのか。ATLASプロジェクトの責任者であるピーター・イエニに質問をぶつけると、こんな答えが返ってきた。「私たち人間には、知的好奇心があります。生命と宇宙の仕組みを理解する必要があるのです」

 LHCの実験が新たな謎を生むことは、ほぼ間違いない。何しろ宇宙は、人間が理解しやすいようにできているわけではない。しょせん私たち人間は、自分の体内にどんな細菌がいるかさえ正確に知らないのだ。

 以前、私はノーベル賞物理学者のジョージ・スムートに、宇宙の最も根本的な原理が解明される日が来ると思うかと、尋ねたことがある。

 彼はこう言った。「その日の気分で答えが変わるだろうね。でも毎日研究室で仕事をしながら自分に言い聞かせているんだ。宇宙の構造は、きっとシンプルで美しいはず。限りある人間の思考力でも、いつかきっと宇宙を理解できる日が訪れるはずだとね」

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