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地球の悲鳴
嘆きのハザラ
アフガニスタンの
異端者

FEBRUARY 2008


 シャファクは子どものころから、ハザラ人の伝説を何度となく聞いていた。自分たちの先祖はどこから来たのか。なぜ自分たちはパシュトゥン人やタジク人とちがう顔だちをしているのか。

 伝説によると、ハザラ人の祖先はチンギス・ハーンに仕えたモンゴル帝国の兵士たちにさかのぼるという。13世紀、アフガニスタンに侵入した彼らは要塞を築き、住民たちを征服した。住民と言っても、シルクロード沿いに暮らすさまざまな民族が混在していた。その住民たちが蜂起してチンギス・ハーンの息子を倒すと、征服者は報復としてバーミヤーンに猛攻撃を加え、住民のほとんどを虐殺した。

 やがてモンゴル人兵士と、かろうじて生き残った住民が、長いあいだともに暮らすうち、同化が進んでハザラ人と呼ばれる集団が形づくられていったようだ。現在、この地域の人びとの顔だちがとても変化に富んでいるのは、こうした遍歴のあらわれなのかもしれない。

 最近では、チンギス・ハーンとのつながりを誇りにするハザラ人もいるが、よそ者の血を引くことは、昔から明らかに不利だった。それを物語る最初の事件が、1890年代に起こったハザラ人の大量虐殺である。パシュトゥン人だったアブドゥル・ラーマン王のもと、狂信的な愛国主義と、ハザラ人を異端と決めつけるスンニ派ムッラー(聖職者)の裁定を背景に、ハザラジャートとその周辺で数千人が殺され、生き残った者も奴隷にされるなどした。

 大勢のハザラ人が、それまで農業を営んでいた低地から追いやられ、中央の高地に逃げこんだ。その後の統治者たちも、武力はもちろん、法律や人心操作などあらゆる手を使い、ハザラ人を物理的にも心理的にも、その高地に閉じこめてきたのである。

 「自分がハザラ人だと名乗るのは、恥ずかしいことだったんです」と、バーミヤーン州のハビバ・サラビ知事は語る。2005年の議会選挙で最多の票を集めた元軍司令官モハメッド・モハケクも、「私たちハザラ人は、ロバのように、ある場所から別の場所にものを運ぶだけの存在でした」と、かつての彼らの境遇を振り返る。

 1996年、タリバンは、民族間の争いに疲れきった国民に、安全を約束して政権を掌握した。このときシャファクは学校の10年生だった。だがその1年前、タリバンは「ハザラ人の父」とよばれたカリスマ的政治指導者のアブドゥル・アリ・マザリを殺害している。マザリは、ハザラ人同士の抗争に終止符を打つべく「イスラム統一党」を創設したが、彼の死後、統一党は分裂し、タリバン勢力がそれに乗じてハザラジャートに入りこんだ。

 シャファクはそのときのことを回想する。「父と畑仕事をしていたら、妹が走ってきて言ったんです。『タリバンがあちこちにいる』と」。村人たちは肥料の袋を白旗がわりに掲げ、地元の代表は必死でタリバンに取り入った。シャファクは家にあった本を隠した。

 そして醜い戦いが始まった。バーミヤーン州では、タリバンの制圧下に入っていない数少ない地域を奪われてなるものかと、イスラム統一党の闘士たちが躍起になった。学校は閉鎖され、農地は荒れ放題だった。住民は国境を越えてイランに逃げるか、山にこもった。タリバンはハザラジャートの交通を封鎖し、ただでさえ干ばつで不作だったこの地域を兵糧攻めにする。バーミヤーンのバザールは火がつけられ、大勢の人が石仏の近くの石窟に避難した。

 2001年はじめ、厳冬のハザラジャート、ヤカウラン郡で悲劇が起こる。1月8日、タリバンはハザラ人の青年を中心部のナヤクに集めた。「彼らは裁判にかけられるのだと誰もが思っていました」。近くのカタ・コーナ村で教師をしているサイード・ジャワール・アマルはそう振り返る。「ところが午前8時、全員が殺されたのです」

 青年たちは一列に並ばされ、衆人環視のもとで銃殺された。青年たちについて問いつめる老人たちも、同じように殺された。人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、4日間で170人以上が殺されたという。「私たちがシーア派だから。理由はそれだけです」と、カタ・コーナ村に住む55歳のモーシン・モイサフィドは言う。彼はその日に二人の弟を失った。

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