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特集

古代エジプトを支配した
ヌビア人の王たち
ブラックファラオ

FEBRUARY 2008


 何百キロも上流のヌビアの都市ナパタにも、同様に足跡を残した。ここには、聖なる岩山ジェベル・バルカルがある。突き出した岩が男性器を連想させ、古来から豊穣のシンボルとされていた。新王国時代のファラオたちも、この岩山に心奪われ、アメン神の誕生の地と信じた。ファラオとなったタハルカは自分の王位を示すため、岩山の下に二つの神殿を建てた。さらに、岩の頂の一部を金箔でおおい、自分の名を刻ませた。

 帝国建設の壮大な事業が進むなか、治世15年目を迎える頃には、タハルカはみずからの権勢に酔いはじめたのかもしれない。「彼は非常に強力な軍隊をもち、当時の世界で最も強大な権力をもつ指導者の一人となっていました」と、ボネは話す。「自分が世界に君臨する王だと考えたのかもしれません。少々慢心して、権勢におぼれるようになったのでしょう」

 建築熱にとりつかれたタハルカに、ビャクシンやレバノンスギといった木材を提供していたのは、レバノン沿岸部の交易人だ。アッシリアの王エサルハドンが、この主要な交易路を押さえようとしたため、タハルカはアッシリアに抵抗する勢力を支援すべく、地中海東岸レバント地方の南部に軍隊を派遣した。エサルハドンは抵抗勢力を鎮圧し、報復として紀元前674年にエジプトに侵攻したが、タハルカの軍隊に撃退された。

 この勝利でタハルカはさらに慢心しただろう。アッシリアに抵抗していた地中海沿岸の国々も強気になり、エサルハドン打倒を誓ってタハルカと同盟を結んだ。紀元前671年、アッシリア軍は抵抗を鎮圧するため、ラクダの群れを率いてシナイ砂漠に侵入し、あっという間に勝利を収めた。この勢いに乗じて、エサルハドンは一気にタハルカを倒そうと、ナイル川デルタ地帯に軍隊を差し向けた。

 タハルカの軍勢はアッシリア軍に抗戦し、15日間の熾烈な戦闘を繰り広げた。「血で血を洗う」戦いになったと、アッシリアの記録にも記されている。だが、ヌビアの軍勢はメンフィスまでじりじりと撤退を余儀なくされた。5回も負傷しながら生き延びたタハルカは、メンフィスを放棄して敗走。エサルハドンは、残酷なアッシリアの流儀で、通過する村々の住民を皆殺しにし、「村民の首塚を残して去った」という。

 タハルカの屈辱的な敗北を後世に伝えるため、エサルハドンは、首に縄をくくりつけられたタハルカの息子ウシャンクウルがひざまずいて命乞いをする様子を描いた石碑を造らせた。

 だが、結局長生きしたのはタハルカのほうだった。エサルハドンは紀元前669年、エジプトに向かう途中で死亡。その知らせを受けて、ヌビア勢はメンフィスを奪還した。しかし、アッシリアは新王の下で、再びメンフィスに攻撃をしかけてきた。このとき、アッシリア軍は捕虜にした抵抗軍の兵士を自軍に組み入れ、戦力を増強していた。タハルカはまったく歯が立たず、南のナパタに逃げ延び、二度とエジプトに戻ることはなかった。

 メンフィスから2回も敗走しても、ヌビアに戻れば王の座は安泰だったという事実から、ヌビアでのタハルカの権力基盤がいかに強固だったかがうかがえる。タハルカが晩年をどう過ごしたかはわからない。ただ一つ明らかなのは、その生涯の最後に、伝統の復活という使命を果たす選択をしたことだ。

 タハルカは、父のピイと同様、ピラミッド埋葬を望んだ。ただし、歴代のクシュの王たちが眠るエル=クッルの王家の墓地ではなく、ナイル川の対岸にあるヌリに埋葬するよう命じた。なぜこの場所を選んだのか。考古学者ティモシー・ケンドールは、死者の再生を信じるエジプトの太陽信仰にもとづき、タハルカは永遠の命を得ようとしたのだと推測する。古代エジプトの元日にあたる日の夜明けに、ジェベル・バルカルの山頂から見ると、タハルカのピラミッドは昇る太陽と一直線に結ばれる位置にあるからだ。

 だが、本当のところはわからない。多くの謎を残したまま、黒いファラオのかすかな足跡は今、ダム建設で失われようとしている。

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