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特集

古代エジプトを支配した
ヌビア人の王たち
ブラックファラオ

FEBRUARY 2008


 ヌビアの歴史が軽視された背景には、19世紀から20世紀にかけての欧米人の偏見にとらわれた世界観だけでなく、過熱気味のエジプト文明礼賛と、アフリカの歴史に対する理解不足があった。「初めてスーダンに調査に行ったときには、『なんでそんなところに。歴史はエジプトにしかない』と言われたものです」と、スイスの考古学者シャルル・ボネは振り返る。

 それは、ほんの44年前のことだ。そうした見方が変わり出したのは、1960年代にアスワンハイダム建設で水没する遺跡群を救う運動が始まり、多くの遺物が発掘されてからである。

 2003年には、ボネがヌビア人ファラオの大きな石像7体を発見。ナイル川の第3急湍周辺の古代都市ケルマで何十年も続けてきた発掘調査が、ようやく国際的に認められるようになった。だが、ボネはそれよりもずっと前に、ケルマよりも古く、人口密度が高かった都市遺跡も見つけていた。「それはエジプトの影響がない、独自の建築様式と埋葬の習慣をもつ王国でした」。この強大な王朝は、エジプトの中王国が衰退した紀元前1785年頃に興隆した。

 ヌビアの歴代の王たちの物語からわかるのは、アフリカ内陸部に独自の古代文明が栄えていただけでなく、一時はそれがナイル川流域の支配的な勢力となり、北のエジプトと交流し、ときには縁戚関係も結んだという事実だ(ツタンカーメンの祖母にあたる、エジプト第18王朝の王妃ティイには、ヌビア人の血が混じっていたという説もある)。

 西アジアに覇権を広げるための軍資金をヌビアの金鉱に頼っていたエジプトは、南のヌビアが強大な力をもつのを嫌った。そのためエジプト第18王朝(前1539~前1292年)の王たちは、軍隊を派遣してヌビアを征服し、ナイル川に沿って要塞を建設した。ヌビア人の首長を行政官に据え、従順なヌビア人の家の子どもをテーベの学校に送り込んだ。

 エジプトに支配されていたこの時期、ヌビア人の特権階級は、エジプトの文化的・宗教的な慣行を採り入れ、エジプトの神々、とりわけアメン神を崇め、エジプトの言葉を話し、エジプトの埋葬方式を採用して、後にはピラミッドを建設するようになった。まるで、19世紀に欧州で巻き起こったエジプト文明礼賛ブームを、数千年前に先取りしていたかのようだ。

 19世紀末から20世紀初めのエジプト学者は、ヌビアが弱小勢力だったために、エジプト文明を採り入れたと解釈した。しかし、この見方はまちがっている。ヌビア人は時代の趨勢を読むのに長けた人々だった。紀元前8世紀頃になると、エジプトは小国に分裂し、北部はリビア人の首長たちが支配した。彼らは、正統な王位継承者であることを示そうと、ファラオの伝統を形式的にまねたが、権力基盤が固まってしまえば、その必要はなくなり、アメン神崇拝の神権政治の色合いは薄れた。

 カルナク神殿の神官たちは、神を畏れぬ統治を嘆き、天罰が下るのを恐れた。そして、強大で神聖なかつてのエジプト王国の再興を願い、新たな指導者を求めて、南に目を向けた。そこにはエジプトに足を踏み入れずに、エジプトの宗教的な伝統を守ってきた人々がいた。考古学者ティモシー・ケンドールの言葉を借りれば、この時点でヌビア人は「エジプト人よりもエジプト人らしかった」のである。

アッシリアとの戦い

 ヌビア人の王の支配下で、エジプトはエジプトらしさを取り戻した。紀元前715年にピイがこの世を去ると、弟シャバカがエジプトの都メンフィスに居城を移し、第25王朝の支配基盤を固めた。ピイと同様、シャバカも古いファラオの伝統を忠実に守り、エジプト第6王朝のペピ2世の名を継承した。シャバカは捕らえた敵を殺さずに、労働に駆り出し、ナイル川の氾濫からエジプトの村々を守る堤防を築いた。

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