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特集

広大な記憶の海の
秘密をさぐる

DECEMBER 2007


 毎朝の習慣で、E・Pは目が覚めるとベッドから起き出し、朝食をとり、またベッドに戻ってラジオを聞く。ベッドに戻ると、朝食をとったのか、目が覚めたばかりかわからなくなることもある。もう一度朝食をとって、ベッドに戻り、さらにラジオを聞くといったこともしばしばだ。

 テレビもよく見る。一場面一場面はとても刺激的だが、始まりと中間と終わりがはっきりしているような番組は苦手だ。お気に入りは歴史ドキュメンタリー専門のチャンネルや第2次世界大戦に関連した番組。近所を散歩するのも日課のうちで、昼食前に何度か歩く。ときには45分くらい歩く。庭の椅子に座って、新聞も読む。

 新聞に書かれていることを、彼はどんなふうに受け取っているのだろう。想像するに、タイムマシンで未来に旅した気分だろう。ブッシュって、誰だ? イラク? それがどうした――そもそも彼は、見出しを読み終える頃には、たいがいその初めの言葉を忘れている。

 記憶を失えば、時間の観念もなくなる。E・Pには意識の流れというものがない。彼の意識は小さな水滴のように、ぽつんとしたたり落ちては、たちまち蒸発してしまう。思い出せない過去と、思い描けない未来のはざまの“永遠の現在”という宙ぶらりんな世界。E・Pはそこで未来を案ずることも、過去を悔やむこともなく、心安らかに日々を送っている。

 「父はいつも上機嫌です。ストレスと無縁だからでしょうね」と、娘のキャロルは話す。
「おいくつですか」。スクワイアがE・Pに聞いた。
「ええと、59…いや60かな。まいったな。私の記憶力は完璧とはいかなくてね。物覚えはいいほうなんだが、人から何か聞かれて、答えに詰まることが時たまある。あなただって、そういう経験がおありでしょう」

 「ええ、ありますよ」。スクワイアはやさしくうなずく。E・Pの答えた年齢が、実年齢からほぼ25歳もずれていることなど気づかなかったように。

 記憶の科学的知識は、その多くがこのE・Pとよく似た脳の損傷をもつ患者を研究して得られた。米国コネティカット州の介護施設で暮らす81歳の記憶障害者“H・M”のケースだ。

 H・Mは10歳で自転車の事故にあい、その後てんかんの発作に悩むようになった。やがて週に数回も意識を失うほどの重い発作を繰り返して、通常の生活を送ることができなくなり、27歳の時に神経外科医のウィリアム・ビーチャー・スコビルの執刀で、発作の原因とみられる脳の一部を摘出する、実験的な治療を受けることになった。

 1953年、H・Mは意識のある状態で手術台に寝かされ、頭皮に麻酔を施された。スコビル医師は、H・Mの両目のすぐ上に一対の穴を開け、小さなへらのような形の金属製の器具で脳の前の部分をもちあげて、金属ストローで、海馬の大半と、その周辺の側頭葉内側部の多くの部分を吸引した。

 この手術でH・Mの発作の頻度は減ったが、それとともに記憶も失われたことが手術後まもなく明らかになった。

 その後の50年間、H・Mは数多くの実験の対象となり、脳科学史上もっとも詳しく研究された患者となった。スコビル医師の手術が招いた悲劇的な結末から、側頭葉内側部の大規模な切除は行われなくなり、H・Mのケースが唯一の症例になるだろうと考えられていた。

 そんな予測をくつがえしたのが、E・Pのケースだ。スコビルが金属ストローでH・Mに施したことを、自然は単純ヘルペスウイルスでE・Pに施したのである。MRI(磁気共鳴画像装置)で撮影したE・PとH・Mの脳の画像を並べてみると、E・Pのほうが損傷領域が多少大きいとはいえ、片や手術、片や自然の仕業とは思えないほど酷似している。正常な脳の画像を見たことがない人でも、中心部にぽっかりと開いた、うつろな目のような左右対称の一対の穴には、ぶきみな印象を受けるだろう。

 E・Pと同様、H・Mもほんの数秒しか記憶を保持できない。ある事柄について考え続けている間はその事柄を覚えていられるが、何か別のことに注意を向けると、もうだめだ。記憶には長期記憶と短期記憶の二つのタイプがあることは、19世紀末から知られていた。H・Mを対象にした研究から、今ではこの二つの記憶は、脳の別々の領域でつくられることがわかっている。H・Mは海馬とその周辺領域をあらかた失ったため、短期記憶を長期記憶に転換できないのだ。

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