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特集

広大な記憶の海の
秘密をさぐる

DECEMBER 2007

文=ジョシュア・フォーアー 写真=マギー・スティーバー

去20年間の出来事をつぶさに思い出せる女性。脳の損傷で、数分前のことも記憶できない男性……。記憶のメカニズムの謎を明かす。

 米国カリフォルニア州在住で、秘書として働く41歳の女性がいる。医学文献では“A・J”と呼ばれているこの女性は、なんと11歳から今まで、ほぼ毎日の出来事をつぶさに覚えている。

 その一方で、“E・P”と呼ばれる85歳の退職した実験技師がいる。この男性は、数分前のことも思い出せない。A・Jが世界一物覚えのいい人間だとすれば、E・Pはさしずめ世界一物覚えの悪い人間といえるかもしれない。

 「まるで映画のように、過去の出来事が次から次へとよみがえるんです。自分の意思とは無関係に……」と、A・Jはいう。たとえば1986年8月3日の日曜日、昼の12時43分に当時好きだった青年が電話をかけてきたこと。1988年12月12日に見たテレビドラマのストーリー。1992年3月28日に父親とビバリーヒルズ・ホテルで昼食をとったこと。世界を揺るがしたニュースからスーパーへ買い物に行ったことまで、その日の天気からその時々の自分の気持ちまで、A・Jはほぼあらゆる事柄を記憶していて、何を聞かれてもよどみなく答える。

 映画『レインマン』でダスティン・ホフマンが演じた人物のモデルになった、サバン症候群のキム・ピークなど、並外れた記憶力の持ち主は現代でも何人か知られている。だが、A・Jのケースは特殊だ。彼女は事実や数字ではなく、自分の過去をこと細かく覚えている。このような例はこれまで報告されておらず、7年間A・Jを調べてきたカリフォルニア大学の神経科学者ジェームズ・マッガウ、エリザベス・パーカー、ラリー・カーヒルは、まだ未解明の部分が多いA・Jの症状に「ハイパータイメスティック(過剰記憶)症候群」という新しい医学用語をつけた。

 一方のE・Pは身長180センチ、白髪をきちんと分け、大きな耳をした穏やかな老人だ。人なつこく、よく笑い、好々爺といった印象を与える。

 実は15年前、E・Pの体内に潜伏していた単純ヘルペスウイルスが脳内に侵入し、中心部の神経細胞を死滅させた。ウイルスの増殖はやがて収まったが、E・Pの脳の側頭葉内側部と呼ばれる領域にはクルミほどの大きさの穴が二つ残り、E・Pは記憶力をほとんど失った。

 ウイルスの“仕事ぶり”は恐ろしく正確だった。側頭葉内側部は脳の左右半球に一つずつある。そこには海馬と呼ばれる湾曲した部位があって、知覚した情報を長期記憶に変えるという離れ業を担っている。

 海馬の役目は、記憶の貯蔵ではなく、記憶の形成にある。形成された記憶は、脳の表面の大脳新皮質に貯蔵される。E・Pの脳は、海馬が破壊されてしまい、テープヘッドが壊れたビデオカメラのようになった。つまり、レンズには像が写る(知覚はできる)が、その画像を記録できない(記憶できない)のだ。

 E・Pは二つのタイプの健忘症だ。新しい記憶を形成できない(順行性健忘)だけでなく、古い記憶も思い出せない(逆行性健忘)。少なくとも1960年以降のことはまったく思い出せない。子供時代のエピソードや第2次世界大戦などは鮮やかに覚えているが、彼にとってガソリン代は1リットルあたり10セントもしないし、人類はまだ月面着陸を果たしていない。

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