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特集

湿地に眠る
不思議なミイラ

SEPTEMBER 2007


 だが、米ノースダコタ州立大学のヘザー・ギル・ロビンソンがこの遺体の骨格やDNAを詳しく調べた結果、従来の説は覆された。ヴィンデビーの“少女”と考えられていた遺体が、若い男性である可能性が高まったのだ。別の研究者が行った放射性炭素による年代測定で、愛人とされた遺体は、ヴィンデビーの“少女”より300年も前の人物だったことも判明した。

 デンマークでは、コペンハーゲン大学のニルス・ルノープらの法医学者たちが国内で見つかった湿地遺体の再鑑定を行い、拷問や暴行によるものと考えられてきた損傷の一部が、実は死後数百年たってからできたものであることを突きとめた。コペンハーゲン北西部の湿地で1952年に発見された「グラウベール人」は、最も保存状態のよい湿地遺体の一つで、細部まで丹念に調べられている。遺体の骨は、湿地の酸性の水分のせいでカルシウムなどのミネラル分が失われ、ガラスのようになっていた。かつて行われたX線検査では分析が難しかったが、今ではX線CT装置による検査で、グラウベール人の頭骨は湿地の泥炭の重みで押しつぶされたもので、発掘作業中に少年が誤って遺体を木靴で踏みつけたこともわかった。

 ルノープと考古学者のポーリーン・エーシングらの研究チームは、グラウベール人は2300年ほど前に、ケルト人やゲルマン人が生と死を司る神として信仰していた豊饒の女神への生け贄にされたと考えている。殺されたのは不作の年の冬だった可能性があると、研究者は指摘する。飢えに苦しみ、もみ殻や雑草まで口に入れていた村人は、誰か一人が犠牲になれば残りの仲間は助かると考えたというのだ。

 グラウベール人はがっちりした体格の34歳の男性で、あごに残っていた無精ひげから、死の数日前に自らの運命を知り、ひげを剃るのをやめたようだ。村人たち、おそらく友人や家族は彼をすぐ近くの湿地へ連れていき、泥炭や沼鉄鉱を掘り出した穴を避けて進んだ。水があふれ出ている穴の際まで来ると、村人の一人がグラウベール人の頭を後ろに反らせて、短刀でのどを片方の耳の付け根からもう一方の耳まで大きく切り裂き、瀕死の男を穴に放りこんだ。生け贄は体をよじらせて穴に落ち、湿地に飲みこまれていった。

 アイルランド国立博物館の古代遺物管理責任者エイモン・ケリーは、古代アイルランドでもよく似た儀式が行われていたと考えている。クローニーカバン人の発見から3カ月後、40キロ先の湿地から別の古代人の男性の遺体が掘り出された。身長は190センチほどで、見つかったのは胴体と両腕だけだった。腕に残る複数の傷から、この男性は心臓を刃物で刺されて絶命する前に、抵抗したことがうかがえる。

 この遺体には両乳首を切りとられた跡がはっきり残り、上腕には穴が開けられ、ハシバミの小枝をよりあわせた小さな輪が通してあった。一方の二の腕に巻いていた皮を編んで作った腕輪には、ケルト紋様を刻んだ青銅製の魔よけが付けられていた。この腕輪は、クローニーカバン人が“整髪料”に使っていた松脂同様、フランス南部から輸入したものにちがいないと考古学者は考えている。どちらも持ち主の地位を表す高価な品々だ。

「オールドクロウハン人」と名づけられたこの遺体をはじめとして、アイルランドでは約40体の湿地遺体が出土している。それらはすべて高価な装飾品を着け、古代アイルランド王国の国境付近に葬られていた。この事実は「高貴な生け贄」伝説を想起させると、ケリーは指摘する。

 古代アイルランドの王たちは、豊饒の女神と象徴的な婚姻関係にあったという。飢饉は女神が王を見捨てた証であり、何とかして女神の怒りを静めなければならなかった。湿地遺体は神に捧げる重要な供物で、生け贄とされたのは王位を狙うもの、あるいは失脚した王自身だったかもしれない。豊饒、王権、戦争など、女神が司る様々な面を賛美するために、傷つけられる体の部位は決まっていた。「正確に計算して傷をつけたのです。彼らは女神にふさわしい贈り物を捧げました」とケリーは言う。

 髪と爪の分析から、オールドクロウハン人は普段は肉を食べていたことがわかっている。しかし、腸にあった残留物からは、最後の食事は穀物とバターミルクだったと判明した。豊かさを象徴するこれらの食べ物は、豊饒の女神への生け贄にふさわしい。また、彼の乳首は死後に切りとられており、失脚した支配者だった可能性があると、ケリーは推測する。古代アイルランドには、臣下が王の乳首を吸って服従の意を示す儀式があったからだ。遺体は切り刻まれ、王国の境界付近にばらまかれた。腕の穴にハシバミの輪を通したのは、領土を守るための魔法をかけたからかもしれない。

 ケリーの説を科学的に証明することは不可能だ。たとえアイルランドの湿地遺体については正しかったとしても、ヨーロッパ大陸の文化はアイルランドとは異なっていた。大陸ではケルト文化よりもゲルマン文化が支配的で、王ではなく族長による支配が行われていた。生け贄の儀式も異なっていたはずだ。

 コペンハーゲン大学のルノープは、最先端の科学を駆使してグラウベール人の謎に挑み、骨や筋肉、腱を三次元画像で再現することに成功した。だがルノープは、もし謎が解明できなくてもかまわないと言う。「湿地では不思議なことがよく起こります。あいまいな部分は今後もずっと残るでしょう」。そう言ってルノープはほほ笑んだ。「この世には、決してわからないことがあるほうが面白いと思うのです」

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