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特集

新説 マヤ文明
その繁栄と崩壊

AUGUST 2007


 マヤ研究者のサイモン・マーティンとニコライ・グルーベは、ティカルとカラクムルの競争を、20世紀の米ソ冷戦にたとえている。二大勢力の力が拮抗していれば、一定の安定がもたらされる。

 しかし、それも長くは続かなかった。実のところ、カラクムルとティカルは一触即発の不安定な状態だったとマーティンはみている。環境保全をないがしろにしたせいで資源不足に陥り、競争は熾烈をきわめたのかもしれない。歴史を動かしたのは、カンクエンより下流のパシオン川近くにあったドス・ピラスという都市国家だった。630年、ティカルはカラクムルの支配力が強まりつつあったパシオン川の交易路を奪還するため、ドス・ピラスにてこ入れしようとした。ドス・ピラスは前哨地として以外は利点のない都市で、農作物も交易品もなく、周囲からの貢ぎものに依存していた。マヤ研究者が「略奪国家」と呼ぶドス・ピラスにとって、戦争は王権を誇示し、神々を喜ばせる儀式というだけではなく、生き延びるために必要な営みだったのだ。

  ドス・ピラスの暴力と裏切りに満ちた歴史は、635年にティカルの王子の一人、バラフ・チャン・カウィールがこの都市の支配者にすえられたときから始まる。王子を迎えるために突貫工事が行われ、建造物の石組みが緩く不安定なことを隠すために前面に彫刻を施し、荘厳な都のようにとりつくろった。しかし、658年にはカラクムル軍が占領し、バラフ・チャン・カウィールを追放する。

 今から6年前にドス・ピラスで発見された階段に刻まれた碑文には、追放されたバラフ・チャン・カウィールが、カラクムルに従うという条件で2年後にドス・ピラスに戻ったことが記されていた。祖国を裏切った彼はその後20年間、パシオン川渓谷でカラクムルの名代として勢力拡大に努めた。カラクムルは残酷にも、ティカルを攻撃して王を殺せと命じた。ティカルの王は彼と血を分けた兄弟だった。

 679年、バラフ・チャン・カウィールは祖国ティカルを攻撃した。階段に刻まれた碑文は、「頭蓋骨の山が築かれ、血の川が流れた」と伝える。バラフ・チャン・カウィールは勝利し、ティカルの王は戦死した。この勝利によって、カラクムルの権勢は頂点に達する。

 この敗戦後もティカルは滅びず、20年も経たないうちにカラクムルに攻め入り、勝利した。ティカルの中央アクロポリスにある漆喰の浮き彫りには、生け贄にされる時を待つカラクムルの貴族が描かれている。カラクムルはこの敗北から完全に立ち直ることはなかったが、一方のティカルも長い戦乱で国力が疲弊したことは否めなかった。  その後に起きたことは今のところよくわかっていない。カラクムルの覇権は崩壊したが、ドス・ピラスを含めた同盟国がカラクムルの名の下にティカルと戦い続けた。ドス・ピラスは他の都市との同盟や戦争を通じてペテシュバトゥン地域の覇権を握り、歴代の支配者は新たな建造物をつくり、第二の都を建設した。しかし761年にはドス・ピラスの命運も尽きる。かつての同盟国や属国に占領され、ドス・ピラスは滅亡した。その後この都市に人々が住みつくことはなかった。マヤ世界には群雄が割拠するようになり、再び安定した秩序がもたらされることはなく、混乱は広がるばかりだった。

 戦いに敗れた都市では、住民たちがさらなる襲撃を防ごうと儀式用の建造物を破壊し、そのがれきでとりでを築いた。敗れた都市は再建されず、ただ廃墟と化していった。弱小国家が混乱に乗じて勢力を拡大しようとしたが、むなしい悪あがきに終わった。戦乱が続くなか、庶民は隠れるか、逃げるか、死ぬかしかなかっただろう。

 敗れた都市から逃げ出した貴族たちは、それでもしばらくはパシオン川上流の静かな港湾都市カンクエンに隠れることができたようだ。8世紀にはカンクエンは贅沢品の交易で栄え、亡命貴族に豪華な住まいを提供できた。カンクエンの黄金時代を築いたのは、757年に15歳で即位したタフ・チャン・アフク王だ。彼は交易の要衝として長い歴史をもつカンクエンを、壮麗な儀礼センターに変えた。都市の中心に築いた王宮は広さ2万5000平方メートルで、石灰石を使った優美な3層構造をもち、丸天井の居室と11の中庭があった。

 タフ・チャン・アフクの戦争や勝利に関する記録は一切ない。彼は交渉を通じて他の都市を庇護したり、同盟を結んだりして、40年近くパシオン川渓谷北部を支配した。795年に彼が亡くなると、息子のカン・マーシュが後を継ぎ、王宮を増築して父をしのぐ力を誇示しようとした。だが、かつて王権の象徴だった華やかな儀式をもってしても、マヤ世界の統一はかなわなかった。即位後5年も経たないうちに外界の混乱がカンクエンにおよび、ついに恐ろしい運命の日が訪れた。マヤ古典期の終末を彩った輝きがまた一つ消えた。

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