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特集

新説 マヤ文明
その繁栄と崩壊

AUGUST 2007


 古代世界有数の偉大な文明マヤはなぜ滅びたのか。19世紀にペテン地方で“失われた都市”が発見されて以来、研究者に限らず、誰もがこの謎のとりこになった。初期の研究では、火山の爆発や地震、大型ハリケーンなど、突発的な自然災害が主な原因だと考えられていた。また、痕跡は確認できないものの、ペストや天然痘のような何らかの疫病が原因ではないかという説も唱えられた。しかし、今ではこうした「1回限りの出来事」を原因とする研究者はいない。古典期マヤの崩壊は、少なくとも200年にわたって徐々に進行したことがわかってきたからだ。

 都市ごとに事情は異なるが、現在有力視されているのは、人口過密や環境破壊、干ばつなど多様な要因が重なって滅亡に至ったという説だ。研究者たちがもう一つ注目しているのは、長い衰退期にマヤのあらゆる都市で起きた現象だ。資源が枯渇するにつれて君主の威光は色あせ、貴族からも庶民からも信頼を失った。そして社会不安が広がって人々は自暴自棄になり、戦乱を招いたというのだ。

 1000年以上にわたって、マヤの人々は神聖なる王が宗教的な安らぎと物質的な欲求を満たしてくれるものと信じてきた。このような統治システムは、人々の基本的なニーズが土地から生みだされる恵みで満たされるかぎりは機能する。実際、極端な神聖王権が生みだした高度な美術様式や技術で、マヤは古代世界の偉大な文明の一つになった。都市の規模が小さく、資源が比較的豊かだった時期にはうまくいっていたが、やがて人口が増え、特権階級が肥大化し、都市国家間の競争が激しくなると、環境への負担が増大した。

 今日、グアテマラ最大の面積をもつペテン州の人口はおよそ37万人で、広大な森林地帯に点在する孤立した町に散らばって細々と暮らしている。一方8世紀には、マヤ低地の人口は1000万人にも達したという推計もある。当時は、集約型農業の畑、菜園、集落がほとんど切れ目なく並び、踏みしだかれた道や舗装した堤道サクベが縦横に張りめぐらされ、都市国家を結んでいた。

 マヤの農民は、熱帯の脆弱な土壌から精いっぱいの収穫を得る高度な農法に精通していた。しかし、湖底の堆積層の調査から、9世紀の初めに長期の干ばつが何度かマヤ地域を襲ったことがわかった。ティカルのように飲料用や農業用の水を雨に頼っていた都市では、干ばつの被害はいっそう深刻だった。カンクエンをはじめとした川沿いの港湾都市は水不足を免れたかもしれないが、湖底の堆積層にマヤの多くの地域で古代に表土が流出した痕跡が残り、森林の乱伐や土地の過剰利用が推定できる。

 いったん歯車が狂うと、王が人々を救済する手だてはほとんどなかった。熱帯雨林という環境では、単一の穀物だけを大量に栽培し、余剰を備蓄したり、交易に回すことは不可能だ。マヤの都市国家は、トウモロコシ、豆、カボチャ、カカオなど多様な作物を少量ずつ生産していた。少なくとも当初は食べるのには困らなかったが、余剰はほとんどなかった。しかし、長い間にマヤ社会は一夫多妻や王族同士の結婚で支配階級が肥大化して不安定な構造になった。

 以前からあった都市国家間の競争も事態を悪化させた。王は隣国と張りあってより大きな神殿や優美な王宮を建て、華々しい儀式を行った。そのための労働力をより多く確保する必要性が増し、おそらく奴隷を献上させるための戦争が増えたのだろう。人々の負担が重くなりすぎて、マヤの政治システムは揺らぎはじめた。

 ティカルとカラクムルの二大都市国家の競争は、マヤ世界崩壊の大きな要因となった。ティカルは5世紀以降、パシオン川渓谷から現在のホンジュラスにあるコパンにかけての一帯に勢力を広げた。6世紀になると、カラクムルが現在のメキシコ・カンペチェ州に台頭し、ユカタン半島から現在のベリーズに広がるペテン地方の都市国家と同盟を結んだ。この二つの都市国家は130年余りも覇権争いを繰り広げる。

 この時期は古典期マヤ文化の黄金時代でもある。王は権勢の絶頂にあり、美術や建造物で覇を競い、小規模な戦闘を繰り返していた。562年に勃発した大戦争ではカラクムルがティカルに勝利したが、都市の破壊も住民の殺害もしなかった。そのためティカルは勢いを盛り返してカラクムルを破り、壮大な建造物をたくさんつくった。

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