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特集

新説 マヤ文明
その繁栄と崩壊

AUGUST 2007


 シヤフ・カックの任務は、説得に応じなければ武力を使ってでも、ペテン地方全体をテオティワカンの勢力下に置くというものだった。その任務遂行のカギとなるのがワカだったのだろう。シヤフ・カックがまず標的としたのは、ワカの80キロ東にある都市国家ティカル。ペテン地方中部で最も影響力をもつティカルを勢力下に置けば、他の都市もそれに続くと考えたようだ。シヤフ・カックが率いてきた戦士たちは親善の意を示すことを主な目的として組織された少数精鋭部隊だったので、任務を果たすためには兵力を補充する必要があり、ワカに入城したと考えられる。

 ワカの支配者「太陽の顔をしたジャガー」は、シヤフ・カックを歓迎したようだ。ワカの碑文などの手がかりから、フリーデルと発掘プロジェクトのもう一人の責任者であるエクトル・エスコベド、マヤ文字解読の専門家スタンリー・グンターは、「太陽の顔をしたジャガー」がシヤフ・カックと同盟を結んだ証しに、テオティワカンの聖なる火を祭る火の神殿を建立したと考えている。

 シヤフ・カックはワカの精神的な後ろ盾を得ただけでなく、援軍も確保できたようだ。シヤフ・カックの遠征軍は、テオティワカン特有の投槍器と槍をもち、槍を投げるときに敵の目をくらますために黄鉄鉱でつくった鏡を張りつけた盾を背負っていた。新たに加わったワカの戦士たちは石斧と短い槍で武装し、多くは岩塩を詰めた木綿の胴着を鎧として身につけていた。1100年後にマヤを征服したスペイン人たちは、熱帯雨林では暑すぎる金属の鎧を脱ぎすて、代わりにマヤの“防弾チョッキ”とも言うべきこの木綿の鎧を採用した。

 遠征隊は戦闘用のカヌーでサン・ペドロ川を東にさかのぼり、ティカルに向かった可能性が高い。川の上流で戦士たちは岸に上がり、川岸か川を見下ろす谷の上を歩いて進んだ。進路の行く先々にはティカルの見張りの兵がいて、遠征隊が攻めてくることを知らせた。知らせを受けたティカル軍は、町の手前でシヤフ・カックの軍勢を迎え撃ったようで、後にティカルに建てられた石碑からは防衛部隊が派遣されたことが推測できる。しかし、遠征隊はティカルを目指して進軍を続けた。遂に378年1月16日、ワカ到着からわずか1週間ほどで、シヤフ・カックはティカルを制圧した。

 この日付はティカルの有名な「石碑31」に刻まれている。2000年にデビッド・スチュアートが解読したこの碑文は、シヤフ・カックの重要性が認識されるきっかけとなった。この碑文の2番目の部分は、ティカル陥落後に起きた出来事を伝えている。ティカルの支配者だった「大ジャガーの前足」王(チャク・トック・イチャーク1世)が、シヤフ・カックがティカルを制圧したちょうどその日に死んだというのだ。おそらく征服者たちの手にかかって殺されたのだろう。

 この時点でシヤフ・カックは親善大使の仮面をかなぐり捨て、遠征軍は14代にわたってティカルの支配者が建てた石碑のほとんどを破壊した。新しい時代が幕を開けたのだ。政変のずっと後に建てられた「石碑31」では、シヤフ・カックは「西方の君主」という意味のオーチキン・カロームテと記されている。おそらく彼の出身地であるテオティワカンを指しているのだろう。一部のマヤ研究者は別の解釈をしている。ティカル陥落以前に「大ジャガーの前足」王の父がクーデターを起こし、その時に西のテオティワカンに逃れた一派が378年に戻ってきて権力を奪取したという説で、この一派を代表するのがシヤフ・カックだというのである。

 シヤフ・カックがティカルとその周辺を平定するには多少時間がかかったようだが、到着の翌年には彼が中心となって、よそから来た男をティカルの新しい王にしたことが碑文に刻まれている。この王はテオティワカンでシヤフ・カックが仕えていた君主、「投槍フクロウ」の息子とされ、石碑31によると、王位についたのは20歳足らずのときだった。おそらくシヤフ・カックが摂政となり、ティカルの事実上の支配者として采配を振ったのだろう。

 シヤフ・カックに征服された後の数年間、ティカルは他の都市に攻撃をしかけ、マヤ地域で勢力を広げた。ティカルから250キロ以上も北西に離れたパレンケのような遠方の都市でも、シヤフ・カックの事績が石碑に記されている。一大帝国を築こうとする彼の野望を最も生々しく伝える証拠は、ティカルの北20キロほどに位置する都市、ワシャクトゥンで見つかった。ワシャクトゥンの壁画には、マヤ人の貴族がテオティワカン風の正装をした戦士に敬意を払う場面が描かれていた。この戦士はおそらくシヤフ・カックの部隊の一員だろう。似たような姿の戦士が刻まれた石碑のある墓からは、女性二人(うち一人は妊婦)と子ども、乳幼児の遺骨が見つかった。フリーデルらは、ティカルの戦士たちに殺されたワシャクトゥンの王族の遺骨ではないかと考えている。王はティカルに連れ去られ、生け贄にされたのだろう。

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