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特集

ローマ教皇を守る
バチカンの衛兵

FEBRUARY 2007

文=ペニー・ライ

500年以上、カトリック教会の総本山バチカンでローマ教皇を守り続けてきたスイス衛兵隊。色鮮やかな制服に身を包む、衛兵たちの素顔に迫る。

 四半世紀余りにわたりカトリック教会を率いてきたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が2005年4月に亡くなり、バチカンのシスティーナ礼拝堂ではじまった教皇選出会議に世界の注目が集まった。サン・ピエトロ大聖堂前の広場では、新教皇の誕生を知らせる「白い煙」が礼拝堂の煙突から出てくるのを多くの信者が見守っていた。しかし、彼らよりも先に、バチカンの城壁内に住んでいる人々は、新しい教皇が選出されたことを知った。

 盛装したスイス衛兵たちが新しく選ばれた教皇を表敬するためにサン・ダマソの中庭へ向かっていく姿を、バチカンの住人たちは自宅の窓から目撃したのだ。衛兵たちはまだ扉を閉ざしたままのシスティーナ礼拝堂の前にひざまずくと、右手に長い斧槍を持ったまま、左手を額に当てて敬礼をした。

 スイス衛兵がバチカンで教皇を警護するようになったのは、16世紀の初めのことだ。1505年6月、当時の教皇ユリオ2世は、傭兵として各地の戦争で活躍し、精強な兵としてヨーロッパ中に知られていたスイス人兵士200人を当時は教皇領だったローマに連れてきて、バチカンを守らせることにした。それまでもスイスの傭兵が教皇の衛兵を務めたことはあったが、一時的な任務に限られていた。ところが、ユリオ2世は常設の部隊としてスイスの傭兵を採用することにしたのだ。

 教皇の要請を受けたスイスの傭兵がバチカンに到着したのは、翌06年1月22日の夜だった。歴代5人の教皇の儀典長を務めたヨハン・ブルハルトは、150人のスイスの傭兵がポポロ門からローマへと入り、まだ改築されていなかったサン・ピエトロ大聖堂の前で教皇に迎えられたと記している。

 さらにブルハルトは、着任したばかりのスイス衛兵について、事細かに日誌に書き残した。たとえば、「教皇の神聖なる警護に当たるスイス歩兵部隊」の司令官はガスパール・デ・シリネンであるとか、衛兵隊を採用するには、大量の金貨が必要だったとか、衛兵の制服代も教皇が負担した、などといったことだ。

それから数年後、スイス衛兵が実際に教皇の命を救う事件が起きた。その教皇とは臆病で優柔不断だったと伝えられるクレメンス7世で、教皇宮殿とサンタンジェロ城を結ぶ古い城壁にある秘密の廊下「パセット」が舞台となった。

 1527年5月、神聖ローマ帝国のカール5世の軍勢がローマに侵攻し、破壊と殺戮をほしいままに行った。ローマ略奪と呼ばれる攻撃のなか、クレメンス7世はスイス衛兵に守られて、このパセットを抜け、サンタンジェロ城へと避難した。その際、教皇を守ろうとして、多くの衛兵が命を落とすことになる。189人いたスイス衛兵のうち生き残ったのはわずか42人だったという。

 事件から20年ほど後、教皇パウロ3世は、スイス衛兵が自らの命を顧みずに教皇への忠誠を示したことに感銘し、一時途絶えていた衛兵隊を復活させた。そして、その数を225人に増やしたのだ。

 1571年、ベネチア共和国が支配していたキプロス島にオスマン帝国軍が上陸。首都のニコシアと港湾都市のファマグスタを占領すると、教皇ピオ5世はベネチアを援護するためにスイス衛兵隊を同島に派遣した。その数カ月後には、オスマン帝国海軍とカトリック連合艦隊が戦った有名なレパントの海戦にもスイス衛兵が派遣されることになる。この海戦は結局、カトリック連合艦隊の勝利に終わり、ヨーロッパのイスラム化を食い止めることにつながった。

 だが、忠誠心があつく、信頼されていたスイス衛兵たちが、ローマ教皇に反旗を翻したことがある。反乱のきっかけは、1878年にジョアッキノ・ヴィンチェンツォ・ペッチ枢機卿が教皇に選出され、レオ13世となったことだった。前教皇が死去してから新たな教皇が選ばれるまでの期間、スイス衛兵たちが立派に任務を果たしたにもかかわらず、レオ13世は慰労金を支払おうとしなかったのだ。

 これに抗議して、30人の衛兵と数人の将校が反乱を起こした。ライフル銃で武装した彼らは、2人の衛兵が収監されていた監獄を襲撃し、教皇の憲兵隊と衝突した。教皇レオ13世は苦しい立場に立たされた。慰労金を与えたくても、前教皇ピオ9世の30年を超す在位期間中に、教皇領は完全に消滅し、教皇の財政は危機的状況にあったのだ。そこで、新教皇は反乱分子の怒りを鎮めるために、大量のワインを用意したが、衛兵たちはこの贈り物を拒絶。その後3日間、教皇は苦悩した末、観念した。側近のフランキ枢機卿を通じて、反乱を起こした衛兵たちに対して、武器を放棄することを条件に慰労金を与えると約束したのだった。

 この事件が前例となったようで、レオ13世の死後にも、似たような事態が繰り返されることになる。1903年、レオ13世の後継者として選ばれたピオ10世が打ち出した新しい方針に、衛兵たちは反発したのだ。このときは新教皇が、スイス衛兵に慰労金を与えようとしなかったばかりか、スイス衛兵の制度そのものを廃止しようとしたのが、事件の原因だった。

 16世紀初頭に発足して以来、スイス衛兵隊はすでに2度、解散の憂き目にあっている。最初は、18世紀末にフランス軍がローマに侵攻して教皇領を占領し、教皇ピオ6世をバチカンから追放したとき。2度目は19世紀になって、スイス衛兵隊を含めた教皇つきの軍隊が再編成されたときだ。だがこの2回の解散劇とピオ10世のもくろみとは何の関係もなかった。教皇の方針が明らかになると、衛兵たちをバチカンに送り込んでいたスイスの各州政府がただちに介入する事態に陥った。

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