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近代日本版画の潮流





昭和15(1940)年4月に来日した版画コレクターのミューラー夫妻を囲んで。渡邊庄三郎(前列右)や川瀬巴水(後列左から2人目)、伊東深水(後列右端)など、新版画運動の立役者たちが並ぶ。


宴会の席での伊東深水(左端)と川瀬巴水。二人は同じ鏑木清方の門下生で、友人でもあった。巴水は酒を飲むのが大好きで、旅先でも酒を欠かさなかったという。


文=渡邊章一郎(渡邊木版美術画舗社長)

 江戸文化の華、日本美術の代表とまで今日称えられている浮世絵。しかし明治時代も後半になると浮世絵の衰退は著しいものになり、日清・日露戦争の報道用作品を最後として自然消滅の道をたどっていった。一方、幕末以来浮世絵の国外流出は日本が年々国際的な地位を高めるにしたがって一層拍車が懸かり、浮世絵の国外での人気は高まるばかりであった。
 縁あって貿易商小林文七商店の横浜支店に勤務し、美術品、特に浮世絵の輸出に携わっていた私の祖父渡辺庄三郎は考えた。このままでは日本が世界に誇る美術品浮世絵は国内から姿を消してしまう。世界でこれだけ愛好されているのに国内では欧米の新しい美術品や新技術ばかりがもてはやされて浮世絵がこれ以上発展する様子はない、と。幸いまだ浮世絵の技術を継承していた江戸時代以来の摺り・彫りの職人が数多く存在していたので浮世絵の復刻版を製作することは容易であった。海外での浮世絵の需要は増えるばかりであっても、必ずしも全ての人がいわゆるオリジナルばかりを求めている訳ではない。オリジナルと全く同じ過程で製作した復刻版でも復刻版と断った上で売れるはずだ、と。
 そこで、浮世絵の復刻技術を独力でマスターした祖父庄三郎は、小林文七商店から独立した明治39年(1906年)前後より、主に外国取引を目的に名作浮世絵の復刻版を次々と製作していった。
 さらに祖父は一歩踏み出して、同じく主に輸出用として短冊型で浮世絵風の版画を生みだした。実験的に夏の軽井沢で同業店に販売委託したところ、外国人向けに大いに売れ、手ごたえをつかんだという。
 これら浮世絵風「新作版画」には、高橋松亭、伊藤総山、小原祥邨、扶陽(楢崎栄昭)等、日本画・浮世絵系統の絵師が起用され、外国人好みの花鳥風月、風景が江戸情緒豊かに描かれている。明治末から大正昭和期にかけて大いに売り出され、創業間もない渡辺木版画店の主力商品となっていった。

 浮世絵復刻版や浮世絵風「新作版画」の成功に自信を得た祖父庄三郎はこれに満足することなく、さらなるものを目指した。歌麿、北斎、写楽、広重等の浮世絵黄金時代を今日の画家によって今日の感覚で再現したい、しかも伝統的な浮世絵版画の技法を以って製作していきたい。さらに浮世絵の時代にはそれほど意識されていなかった芸術性を持ったものを。
 ご存知のように浮世絵版画は絵師と彫師と摺師の三者による共同作業で製作されていた。しかし、明治に入ると彫り、摺りの技術は最高のレベルに達していながら絵師の個性が発揮されているこれといった作品が少なくなっていき、明治後半には優れた少数の例外を除けば浮世絵版画はその工芸的要素ばかりが強調された作品が目立つようになっていた。
 一方、「創作版画」は山本鼎、恩地孝四郎ら洋画家を中心として明治末期より進められていた。これは、版画製作では表現したいものはまず自分で描き、自分で版木を彫り、そして自分でこれを刷り上げなければならないというものであった。すなわち自身の芸術表現は決して他人の手を借りず、「自画」「自刻」「自摺」と呼ばれるように、製作過程全てを自身で一貫して行なうことで芸術上の自我の確立を求めようとしたものであった。
 後世、「新版画」と呼ばれる祖父庄三郎の理念は、こうした「創作版画」に強く影響され、大いに刺激を受けていたようである。
 「新版画」は浮世絵版画の伝統的な技術、すなわち彫師、摺師の木版画における分業性なればこそ高度なテクニックを有効に生かしながら、画家の個性や意思を尊重し、最大限効果的に芸術を追求しようというものであった。これにはいろいろな試行錯誤があったはずである。しかし今日確かな作品として残っているものとしては、大正4年(1915年)のオーストリア人、カペラリーの作品群が最初の試みであり、次いで橋口五葉による「浴場の女」がもっとも初期のものと考えられている。これ以降数多くの画家が依頼に応じて作品を製作していくようになった。
 この当時、渡辺版画店でのオリジナル浮世絵、浮世絵復刻版、浮世絵風新作版画による利益のすべてが「新版画」につぎ込まれた。本来「創作版画」が目指そうとしていた版画による多彩な表現を、商売上の採算を度外視して、伝統的木版画の技術革新によって推進しようとしたのではないだろうか。祖父の心の内は図り知ることは出来ないが、一方で新進の創作版画を応援しつつ、他方、伝統技法による逆襲を試みていたのではないだろうか。浮世絵や浮世絵風新作版画には見られなかったような意欲的作品、実験的な作品が関東大震災までの短い間に生まれている。
 さらに、祖父庄三郎は製作していくにあたり黄金時代、すなわち錦絵誕生から幕末の浮世絵を意識して品揃えを図っていたようだ。主な浮世絵絵師と新版画家を例に取り上げてみると、浮世絵美人画の春信、清長、歌麿に対して橋口五葉、伊東深水、役者絵の豊国、写楽には名取春仙、山村耕花(豊成)、風景画の北斎、広重には吉田博、川瀬巴水、笠松紫浪、伊藤孝之等である。これらの他に注文製作であるチャールズ・バートレット、エリザベス・キース等の数人の外国人画家の作品が存在している。

 大正12年(1923年)9月1日昼頃に関東大震災が発生した。現在の中央区京橋3丁目にあった渡辺版画店は地震の揺れによる被害はそれほどでなかったものの、後刻やって来た大規模な火災により、それまで蓄えた浮世絵版画はもちろん、新作版画、新版画の作品と版木のすべてを一瞬にして失ってしまう。地震後の混乱と動揺の中、作品や版木を持ち出せるはずもなく、貴重な財産は文字どおり灰燼に帰してしまった。
 この大震災を境に新版画の作品に変化が見られるようになった。それまでは渡辺版画店の利益をすべてつぎ込んで、いわば採算を度外視して「売れても、売れなくても」理想とした作品を作ろうとしていたが、これ以後にはいかにも「売れ筋」の作品が多く登場している。もちろん、震災以前にも売れたであろう作品は少なくはないが、以後はその比率がかなり増加している。どういった作品が「売れ筋」かはそれまでの経験で十分に理解していたに違いない。スタンスの変更は容易だったと思われる。すべてを失った後、大正14年(1925年)4月に銀座8丁目の現在地に店を再開するにあたり、資金にも以前ほどの余裕がなく、もはや採算度外視というわけにはいかなくなったのではないだろうか。しかし作品としては川瀬巴水の東京二十景シリーズや伊東深水の現代美人集シリーズに代表されるように、誰にでも分かりやすく、取っつき易いものが増えている。
 一方、創作版画も、昭和期を迎える頃から、もはや自画・自刻・自摺だけを標榜しているだけではなく、その内容が問われるようになっていった。大震災後の新しく変貌する東京を「東京百景」として、個人が、あるいはグループなどでしきりに発表され、近代都市生活の風景や風俗を描いた作品が目立つようになった。これもやはり一般大衆に受け入れられてこそ、より具体的に言えば、売れてこそ作品が評価されているという認識が、創作版画の作家たちの中でさえも強くなっていたのではないだろうか。
 関東大震災後、第二次大戦までの約20年、新版画の平易さへの転換と、創作版画の題材の大衆化は、いずれも「売れ筋」を多少なりとも意識した結果と思われる。かつて、一方は浮世絵を応用発展させ浮世絵には無いものを創造しようとし、他方は浮世絵とは根本から違う版画世界を創造しようとしたにもかかわらず、皮肉なことに結果として双方が、浮世絵により近づき、お互いが非常に近い存在になっていたといえるのではないだろうか。
 販売と評価という点では、「新版画」は海外を中心に、欧米人のこうあってほしいと思える日本の風景や風俗が描かれていたこともあり、大いに売れた。しかしながら、国内での評論家の評価は「今更、浮世絵の延長線上の作品など」と低く、新しい「創作版画」に対しての評価の方がはるかに高く、さらに浮世絵系の研究者も「創作版画」に対して総じて肯定的で、むしろ応援していた程であった。ところが、「創作版画」の売れ行きは国内外とも余り振るわなかったという。
 川瀬巴水の作品などで、渡辺版画店以外の版元から「新版画」が出版されるようになったのもこの頃である。例えば巴水の作品ならば渡辺版画店での「売れ筋」作品を研究し、雪景色に赤い寺院や神社、月が美しく映る水辺、雨の降る町の夕景などが作り出された。これらは綿密なマーケティングとリサーチの成果によるもので、今日に至っても国の内外を問わず人気が高いものが多い。ただし、これらの「新版画」は長続きせず、多くが短命に終わっている。
 やがて不幸な第二次世界大戦がはじまり、輸出の道が細くなり、やがて閉ざされてしまい、国内の生活事情も逼迫してきた昭和十年代後半、渡辺版画店も開店休業状態となった。

 昭和20年(1945年)8月、終戦を迎え、やがて東京に進駐軍がやってきた。日本の美術品を代表する版画は、手頃なみやげ物として大いにもてはやされ、版画の世界は未曾有の活況を呈した。「新版画」はもちろん、「創作版画」も一大ブームとなり、大いに売れたという。
 「新版画」はかつて関東大震災の後、一度方向転換が図られた。第二次大戦後にももう一度、さらなる方向転換が見られる。もう一段と平易な、言い換えれば、風景ならば名所絵的な、みやげ物的な作品が増加している。やはり、その当時の需要に合わせたのであろうか。
 渡辺版画店は大震災後の資金不足と同様、あるいはそれ以上に背に腹は替えられない状態だった。したがって、陳腐化・芸術性の低下などと厳しいことを言う向きもあろうが、まずは確実に売れる作品を作り、まずは経済的な立ち直りを優先課題とせざるを得なかったと思われる。戦争末期の空襲による被害も少なくなく、物資の不足から版木の再利用などもおこなわれた。貴重な「新版画」の版木が、削られて別の版木へと姿を変えたのも終戦をはさんだこの時期である。

渡邊木版美術画鋪のサイト
http://www.hangasw.com







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