ナショナル ジオグラフィック日本版 年間購読申込





$B%J%7%g%J%k(B $B%8%*%0%i%U%#%C%/F|K\HG(B

LINE

取材ノート
岐路に立つウクライナ

Line

<< 特集ページに戻る

Line

Photo

ライターの取材ノート
アンドリュー・マイヤー

Line

Photo

写真家の取材ノート
アンソニー・スオウ

Line

「取材現場から」は、筆者と写真家へのインタビューを編集したものです。
本誌の記事と一部が違うことがあります。

写真=Jacqueline Mia Foster, Contact Press(上) and Brian Strauss

取材現場から 取材現場から PHOTO
岐路に立つウクライナ

ライターの取材ノート
アンドリュー・マイヤー
Best 最高の経験

 ウクライナ広しといえど、キエフからオデッサまでの夜行列車ほど、想像力をかきたててくれるものはない。南へ向かって497キロ走り、黒海にたどり着くこの路線は、国土をほぼ二分している。列車が走るウクライナの中央部は、西側諸国にはあまり知られていないが、対立する東西の間で中立地帯のような役割を果たし、オレンジ革命の先行きのカギを握っている。
 夜明け前に目覚め、薄暗い光にぼんやりと霞む大草原を眺めていると、やがて列車はオデッサの町に滑り込んだ。駅に着くと、降りしきる暖かい雨が、到着した列車の喧騒を包み込んでいた。濡れたプラットホームに立つと、周りにいるのはウクライナ人の旅行者ばかりだった。目に映る誰もが、両手になにかしら荷物を持っている。キエフから運んできたタイヤや中国製のブラジャーが詰め込まれた大きな袋、寝ぼけまなこの孫たちを抱えている人もいた。ウクライナ人の多くがそうであるように、ぜいたくな品は持っていないが、暇だけはたっぷりあるという人々だ。
 彼らに混じって歩きながら、ふと気づいた。この国が東西に分裂しているのは厳然たる事実だが、それは乗り越えられない障害ではない。宗教や言語、伝統に違いはあるだろう。だが、東にも西にもひとにぎりの富裕層がいるものの、大多数のウクライナ人の収入は同程度で、たいした稼ぎはない。同じ列車に乗り合わせた親近感がそう思わせるのか、あるいは多様な人種の人々が一緒に暮らすこの町のせいかはわからない。だが、オデッサでは誰もが感じるはずだ。ウクライナ人は今、アイデンティティの確立という目的を追求することで一体になっている、と。


Worst 最悪の体験

 結果的にはさほどひどいことにはならなかったが、そうなる可能性は充分にあった。写真家のアンソニー・スオウと一緒に、ウクライナ西部の岩が転がる埃っぽい道を、何日も車でのろのろと走っていた。できるだけ小さな村を訪ねたかったのだ。西側の国に手が届くほど近い農村地域の人々が、どんな生活を送っているのか知りたかった。中には、崩れかけの掘っ立て小屋が2、3軒だけという集落もあった。ビクトルに出会ったのは、ポーランドとの国境の手前500メートルほどのところだった。
 ビクトルは身長193センチの、いかつい顔をした筋骨たくましい男で、ウクライナ国境警備員の制服を着ていた。国境のウクライナ側には、彼のような警備員が数人立っていた。彼らは、国境近くの村で、埃っぽい一本道をぶらぶら歩き、数人ほどしかいない住民と話していた私たちを古いソ連軍のジープに“招待”し、近くの基地に連行した。
 苗字を明かさず、ビクトル少佐とだけ名乗った彼の態度は、つっけんどんだった。彼は私たちが国境地帯に入り込んだと指摘し、記者証を提示しても何とも思わないようだった。しかし、話しているうちになごやかな雰囲気になった。おもしろかったのは、NATOについてたずねたときの彼の反応だった。「ウクライナにNATOは必要ないね!」彼は鼻息荒くこう言った。「自分たちの故郷は、自分たちの力できちんと守っていけるさ」
 自分の国に対するプライドをもつことは当然だが、こんな言葉を耳にすることはほとんどない。キエフの官僚たちは、すぐにでもNATO加盟すべきだと口々に語っていた。そうすれば、西側諸国とつながり、国の威信と安全を保ち、近代化を推進できるというのだ。しかし首都から遠く離れた国境で聞いたビクトルの意見はまったく違っていた。
 キエフで、国境警備隊の指揮官の話を聞きたいなどと公式に要望しても、絶対に実現しなかっただろう。出会いこそこわもてだったが、最後には笑顔で語り合えた。


Quirkiest 最も奇妙な思い出

 ユーシチェンコ大統領が、母校で開かれる卒業30周年の同窓会で演説をするという話を耳にした。場所はキエフの西480キロにあるテルノピリの経済大学だ。大統領府の広報部は、私たちがウクライナ人の大統領担当記者たちからこの情報を入手した後で、ようやく演説の予定があることを認めた。しかし、私たちを現地に連れて行くどうかの答えは、はぐらかし続けた。言い訳は毎日変わった。飛行機が小さすぎる。ウクライナ人記者しか参加できない。申請が遅すぎた、などなど。そして最後には、やっぱりだめだと言ってきた。そこで私たちは、先回りして大統領に会いに行くことにした。
 キエフから飛行機で西部の大都市リビウへ飛び、古いソビエト製の自動車ボルガを借りて少し東へ戻り、小麦とジャガイモ畑の中を3時間走ってテルノピリへと向かった。現地に到着したのは、大統領が来る前日の夜だった。
 ユーシチェンコ大統領のファンでさえ文句のひとつも言わずにはいられないほど、彼の遅刻癖は有名だ。すでに4時間遅れていた。暑い日で、気温は35℃まで上がり、雲ひとつない空から太陽が照りつけていた。ソビエト時代に建てられた公会堂は、大統領に熱い視線を送る同窓生たちで埋め尽くされている(ウクライナの西部地方では、ユーシチェンコはまるでロックスターのような歓迎を受ける)。ついに到着した大統領は、装甲が施されたベンツのセダンの運転席に座っていた(毒殺未遂の後では、やはり運転手など信用できなくなるのだろう)。彼はメモも見ずに、何時間も話し続けた。
 集まった人々は大喜びだった。大統領は大学時代の思い出をおもしろおかしく話した。彼の母親は、当時彼を送り出すときに“ソーセージがぎっしりつまった手提げかばん”を持たせたという。物不足のソビエト時代、母親は彼が餓死しないかと心配したのだ。実に見事な演説だった。
 演説が終わった後、大統領の舞台裏の顔を知りたいと思い、彼の主任補佐官に話しかけた。私が側に立つと、ユーシチェンコはこちらを見て頷いた(私は以前、彼のインタビューをしたことがあった)。オレンジ革命後の情勢を取材に来た、西側の国の取材チームだということに気づいているようだった。大統領には、その後数回会うことができた。しかし、最初に目にした、テルノピリで警戒心を解いて母校の校庭に立つ英雄の姿は、もっとも印象深く、多くを語っているように感じられた。









本サイトに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。
すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)National Geographic Society. All rights reserved.
(c)Nikkei National Geographic Inc. All rights reserved.

サイトマップ 著作権/リンク許可
広告出稿のご案内 会社案内
「特定商取引に関する法律」に基づく表示
個人情報保護方針 ネットにおける情報収集
個人情報の共同利用について