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文=大塚茂夫 日本版編集部

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 「そんなに憲三が大きくなるにつけ似て来て居りますか。昨晩も友人と写真を出して話をしたのです。あの元気な姿とおせらしくなった(しっかりした)姿を見て、一度でもよいから抱きたい思いがするといって話をしたのです」
 これは、太平洋戦争のさなか、当時の満州国牡丹江省(現在の中国黒龍江省の一部)に駐屯していた、兵庫県出身の河崎義明さんが妻のよし子さんに宛てたはがきの一節だ。長男・憲三さんの成長ぶりを喜ぶ一方、近くで見守れない無念さも伝わってくる。
 しかし、息子を抱きしめたいという願いは結局かなわなかった。1944(昭和19)年12月、義明さんは、満州からはるか南、パラオ諸島のペリリュー島で戦死。30歳だった。
 息子の憲三さんも、今では65歳になる。義明さんが出征した時にはまだわずか1歳で、父親がどんな人だったのか、まったく記憶にない。「細かな文字で綴られたはがきを読んでいると、父の思いやりに触れられて、感謝の気持ちがわいてきます」。大阪府豊中市の自宅を訪ねると、憲三さんは私にそう話してくれた。
 このはがきが見つかったのは、終戦60年を経た今年3月のこと。取り壊しを間近に控えた実家から、150枚を超えるはがきが見つかり、父親がこんなにたくさんのはがきを戦地から送ってきていたことを憲三さんは初めて知った。13年前に他界した母親・よし子さんは、父親のことをあまり話さなかったという。再婚し、保育士として忙しく働いていた母親には、亡き父親が送ったはがきのことを話す機会がなかったのだろうと憲三さんは察する。
 万年筆のインクは薄れ、はがきは黄色くなっているものの、滅多に送れなかったからだろうか、どのはがきにも小さな文字が隙間なく丁寧に書かれている。このはがきが見つかるまで、父親を知る手がかりといえば、出征前に撮影した軍服姿の写真1枚だけだったが、「はがきを読んで、父親のことが少しわかった気がします」と憲三さんは語る。 戦地と故郷を結ぶ軍事郵便
 義明さんが送ったはがきの宛名面には、赤い文字で「軍事郵便」と印刷されている。
 軍事郵便とは、戦争や事変に際して戦地に派遣された兵士や軍属(軍に所属する文官や技師・給仕など)を対象にした郵便制度だ。
 戦地の兵士などが差し出す郵便物は原則として料金が免除され、戦地にいる兵士などに宛てたものは国内料金で送ることができた。
 日本で軍事郵便が初めて導入されたのは、日清戦争直前の1894(明治27)年6月。その後、日本軍が派遣されるたびに実施された。
 日中戦争では1937(昭和12)年8月2日に、太平洋戦争では1942(昭和17)年1月15日に、逓信省告示によって取り扱いが始まった。
 日中・太平洋戦争当時、軍事郵便の窓口となったのは、各地に置かれた陸軍の野戦郵便局(中国大陸)や野戦郵便所(南方)、海軍の軍用郵便所だった。こうした軍用の郵便施設は戦闘部隊が進出し駐屯すると開設され、部隊が進攻・撤退すると閉鎖された。
 開設地は、アリューシャン列島のアッツ島や内蒙古の張家口、タイのバンコク、太平洋に浮かぶトラック島、アンダマン諸島やニューギニア島など広範囲にわたり、海軍では「大和」や「武蔵」といった戦艦内にも置かれた。8年間に開設された郵便施設は、陸海軍あわせて、延べ300カ所近くに上り、そのほかにも数多くの分所や派出所が設置された。
 当時、防諜上の理由から、部隊の編成や訓練内容、攻撃目標などの軍事機密を書くことは禁じられ、兵士が書いた手紙やはがきは、所属する中隊ごとに検閲を受けなければならなかった。機密に触れるような事柄は、墨で塗りつぶされた。河崎義明さんが妻宛てに書いたはがきも、所々が黒く塗りつぶされている。
 一度しか来なかった輸送船
 三重県津市在住の前川長九郎さん(93歳)は1943(昭和18)年3月、陸軍第十三野戦郵便隊に所属する逓信省職員として、当時オランダ領東インドだったティモール島西部のクーパンに野戦郵便所を開設した。当時、クーパン周辺には1万人ほどの日本兵が駐屯していて、郵便物の取り扱いと、貯金と為替の受け払いが任務だった。当初、刑務所だったと思われる建物を使っていたが、連合軍の空襲が激しくなり、5回も移転することになった。
 軍事郵便物は本来、兵員や武器弾薬などを運ぶ輸送船に便乗させることになっていた。郵便所を開設して3カ月後、輸送船がクーパンの港に到着したときのことを、前川さんは今でもはっきりと覚えている。このとき荷揚げされた郵袋は60個を超え、ヤシの林で区分けをして、各部隊に渡した。日本からの便りを首を長く待っていた兵士の喜びはひとしおだった。
 しかし、前川さんの記憶では、輸送船で軍事郵便が運ばれたのは、この時だけ。海上輸送が難しくなると、将校用の飛行機に積まれるようになった。運べる量は限られ、「戦局の悪化に悩まされて、郵便隊の使命が十分に果たせなかったのが残念だ」と前川さんはクーパンでの2年半を振り返る。やがて部隊から支給されるはがきの数も減り、兵士たちは便りを書くこともままならなくなった。
 戦地からの“生きている証し”
 「兵たちが一番伝えたかったのは何だったと思いますか」。駿河台大学で近現代日本史を教える藤井忠俊さん(74歳)にそう尋ねられ、私は考えこんでしまった。藤井さんは、戦地に駆り出された兵士たちの姿を探ろうと、2000通ほどの軍事郵便を読み解いてきた。
 家族から遠く離れて、いつ死ぬかも分からない状況に置かれたら、自分なら何を伝えようとするのだろう。戦地で見聞きしたこと、軍隊生活の様子、それとも敵と対峙した時の恐ろしさだろうか。私が答えを出しあぐねていると、藤井さんは静かな口調でこう言った。「一番伝えたかったのは、『自分は生きているぞ』ということだと思うのです。故郷の家族が一番知りたかったのも、そのことだったでしょう」
 検閲で、兵士たちはその思いの丈をすべては伝えられなかったに違いない。それでも、自分が書いたはがきが日本で待つ家族のもとに届くこと自体が、何より大切だったのだろう。
 藤井さんの話を聞きながら、河崎義明さんが満州で書いたはがきの一節を思い出した。
 「本日お便りに接し嬉しく拝見いたしました。昨日、あまり便りが有りませんので尋ね状を出した所でした。……私も毎日元気にて軍務に服して居ますから御安心下さい」
 それまで、単なるあいさつとしか思っていなかったこの一節が、とても大切なことを伝えていたのだと知り、戦地からの便りに込められた兵士の思いに少しでも触れられた気がした。

 「憲三も体格も上等で本当に可愛らしくなった との事、又一度写真を送って下さい。憲三の誕生日には 心からの……お祝いと将来の幸福を祈りますから安心下さい

 ――妻よし子へ、河崎義明」

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