鄭和の大遠征
1405-1433年
鄭和艦隊の船は驚異的な大きさを誇った。一説では、「宝船(ほうせん)」と呼ばれる船は、全長120メートルの甲板に9本の帆柱が備わっていたという。それに比べると、ヴァスコ・ダ・ガマの船は小さいものだ。大艦隊は宝船のほかに、数百隻もの貨物船や軍艦、補給船で編制され、数万人に達する男たちを中国からより広い世界へと運んだ。

1405-1407年
317隻
2万7870人
1405年7月、交易のための絹織物や磁器、香辛料を積んで南京を出発。完全武装した“海上都市”のような艦隊は、マラッカ海峡で海賊を打ち破り、スマトラ島、セイロン島、インドに達した。

1407-1409年
艦隊は、第1次遠征の際に中国に連れてきたスマトラやインドなどの使節を本国に送り届けた。2回の遠征によって、明帝国はインド洋における交易ネットワークを確立することができた。

1409-1411年
明艦隊の唯一の陸上戦である、スリランカ王との戦いばかりが注目されるが、この航海ではイスラム教徒だった鄭和が仏教寺院に寄進したことも特筆すべき出来事だ。宗教を超えた融和を求めた鄭和の考え方を表す例といえる。

1413-1415年
鄭和の艦隊はインドの西に広がるアラビア海を初めて横断した。それを受けて、およそ18の国々が中国に朝貢品(ちょうこうひん)と使節を送った。広い地域に明皇帝の威光が及んだことを物語っている。

1417-1419年
この航海で、鄭和の宝船艦隊はアラビア半島を訪れ、さらにはアフリカ大陸に初めて到達した。アデンではスルタン(君主)から、シマウマやライオン、ダチョウなどの珍獣を貢物として贈られている。

1421-1422年
鄭和の艦隊は、皇帝が考えた「往復外交」を実践し続けた。中国に数年間滞在した各国の使節を、宝船に乗せて帰国させる一方で、別の国から使節を中国に運ぶというものだ。

1431-1433年
最後の航海では、アフリカのスワヒリ海岸を目指す一方で、分遣隊がメッカへ派遣された。中国による探検の時代が終わりを告げ、鄭和もその人生を終えようとしていた。彼は中国への帰路でこの世を去り、海に葬られたとされる。
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