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特集
取材現場から
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コルシカ
記事の筆者と写真家が、取材現場から報告する「最高の経験」、「最悪の体験」、そして「最も風変わりな思い出」。



本誌に載らなかったオンラインだけの写真。撮影条件も紹介します。


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文=ピーター・ロス・レンジ 写真=ブルーノ・バービー

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フランス領に属する地中海の島コルシカ。だが住民は独自の伝統文化への愛着が強く、その思いは複雑だ。

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 地中海で3番目に大きな島コルシカ島はフランスに併合されて234年たった今も、地下組織が抗争し、血なまぐさい復讐と暴力のドラマを繰り広げている。コルシカの人々は、粗野な田舎者扱いされながらも、独自の文化遺産に強い愛着をもち、地域主義の急先鋒としてフランスの政治動向を左右してきた。年間200万人もの観光客が訪れる"楽園"の顔と中央政府に反抗する"問題児"の顔をあわせ持つコルシカの素顔を紹介する。

詳しくは本誌をお読みください。

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特集関連の豆知識

 ナポレオン・ボナパルトと出生地コルシカ島との関係は、彼の人生に決定的な影響を及ぼした。若き日のナポレオンはコルシカの独立を願い、支配者フランスを憎んだ。だが後にフランス皇帝となるナポレオンは、コルシカへの憎悪に苦しみながら青年期を過ごすことになる。
 ナポレオンがアジャクシオで生まれてから3カ月後、父カルロの親友パスカレ・パオリ率いるコルシカ軍はフランス軍に破れた。コルシカ人の多くは独立を求めて戦い続けたが、カルロはフランス人を受け入れ、ボナパルト家の高貴な家柄(先祖はトスカナ大公国の貴族)をひけらかすようになった。そんな父親をナポレオンは売国奴と考えた。
 それでもカルロのコネのおかげで、9歳のナポレオンは奨学金を得て1778年にフランスのブリエンヌ兵学校に入学。クラスメートとは打ち解けなかったが、軍人としては出世する。また長くフランスで暮らすにつれ、フランスへの忠誠心が増していったが、ナポレオンの最大の願いはやはりコルシカ島の独立だった。そしてフランス革命中の23歳の時、フランス陸軍から休暇を取ってコルシカ島へ戻り、島の政治に関わった。
 しかし、当時のコルシカ島の行政長官になっていたパオリが、フランス革命政府と決別して独立を宣言すると、ナポレオンはパオリと敵対した。
 パオリ派とボナパルト家との対立は次第に激化した。ナポレオンと彼の家族は、パオリ派に家を襲われ、危険を感じて島を逃れた。ナポレオンはこの屈辱的な経験を決して忘れなかった。その後フランス皇帝となっても、コルシカ島のために尽くさなかったのはそのせいだと言われている。
 しかし、ナポレオンは死ぬ前に故郷コルシカへの敵意を解いたようだ。セントヘレナ島での流刑生活中、ナポレオンはパリでの埋葬を拒否された場合は、コルシカ島のアジャクシオ大聖堂で先祖のかたわらに埋葬して欲しいと依頼した。
 ナポレオンは、流刑から6年後の1821年5月5日に亡くなり、セントヘレナ島に埋葬され、19年後に遺体が希望通りパリへ移された。

――ケイト・ラインベリー

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関連リンク

コルシカの歴史と文化
http://www.corsica.net/corsica/ukdiscov/hist/index.htm

コルシカの伝統音楽
http://www.corsica-isula.com/music.htm



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