揺らぐ“1万時間の法則”

2014.03.11
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チェスの現世界王者、ノルウェーのマグヌス・カールセン氏(右)とインドのビスワナータン・アーナンド氏 の対戦。2月に開催されたチューリッヒ・チェス・チャレンジ2014にて。

PHOTOGRAPH BY STEFFEN SCHMIDT, KEYSTONE/AP
 練習を続けていれば、エキスパートになれるのだろうか。それとも、なれるとは限らないのか。この問題をめぐる論争が激化しているようだ。 マルコム・グラッドウェル氏が2008年に出版した『天才! 成功する人々の法則(Outliers: The Story of Success)』で有名になった“1万時間の法則”が窮地に追い込まれているように見える。1万時間の法則とは、 あるスキルに熟達するには1万時間の練習が必要である、というものだ。

 勝者は育まれるものか、生まれながらのものかという議論の根底にある意見の不一致は、誰が専門家による指 導を受けるべきか、どのように教育すれば人は秀でるのかという問題に発展している。

 ミシガン州立大学の心理学者デイビッド・ザカリー・ハンブリック(David Zachary Hambrick)氏は、「練習 が重要だということを否定する者はいない」と述べる。「練習すれば上達する。問題は、練習のみが上達の鍵か ということだ」。

 今回の騒動のきっかけは2013年5月、ハンブリック氏らが「Intelligence」誌に発表した1つの論文だ。この論 文によれば、音楽やチェスの名人が成功した要因のうち、練習が占める割合は3分の1程度にすぎないという。同 誌には反響が次々と寄せられている。

 論争がクライマックスを迎えたのは2月、フロリダ州立大学の心理学者K・アンダース・エリクソン(K. Anders Ericsson)氏のコメントにハンブリック氏らが反応したときのことだ。エリクソン氏はグラッドウェル 氏の本に登場する一流バイオリニストたちの研究でよく知られる。1万時間の法則はエリクソン氏をはじめとす る複数の研究努力から導き出されたものだ。

◆研究を見直す

 ハンブリック氏のチームは、エリクソン氏による音楽とチェスの名人の事例研究を見直してみた。そして、こ れまでの意図的な練習(演奏や競技ではないという意味)の時間を被験者たちに質問し、成功の要因のうち練習 が占める割合は音楽で30%、チェスで34%にすぎないという結論に達した。

 また、練習時間にも大きなばらつきがあった。チェスのグランドマスターたちの平均は約1万530時間だった が、832時間から2万4284時間まで幅があった。音楽家も1万~3万時間にまたがっていた。

 これだけばらつきがあれば、1万時間の法則は意味を失ってしまうと、ハンブリック氏は指摘している。

 エリクソン氏はこれに対し、不適切な非熟練者のデータまで分析に使われていると反論している。また、2013 年には「British Journal of Sports Medicine」誌の論説で練習時間のばらつきに言及し、「1万時間に魔法の ような効果はない」とも述べている。

 ハンブリック氏はさらに、最高レベルの数人のみを対象にしたエリクソン氏の手法は研究論文というより逸話 集だと反撃している。「統計的に何かを主張できる十分なデータがなければ、それは科学ではない」。

◆極端な議論

 1万時間の法則をめぐる議論にしばしば登場するのが、影響力はあるものの信用されていない2人の科学者だ。

 1人目は19世紀の優生学の父フランシス・ゴルトン。基本的にすべての才能や技能は遺伝によって説明できる と主張した人物だ。ナチスの恐ろしい民族思想はゴルトンの人種差別的な発想から影響を受けている。

 2人目は20世紀初期の行動主義の父ジョン・ワトソンで、次のように断言している。「健康優良児を1ダースほ ど私に預けてほしい。私がつくり上げた特別な環境で育て、1人ずつばらばらに訓練すれば、医者、弁護士、芸 術家、商人、さらには、こじきでも泥棒でも、あらゆる熟練者になることができる。才能や好み、傾向、能力、 転職、人種は関係ない」。

 1万時間の法則をめぐる現在の論争は多くの場合、熟練者になるには両極、つまり天性と育成のどちらが重要 かという議論に発展している。

 エリクソン氏の基本的な立場は、バスケットボールをはじめとするスポーツで有利になる身長や体格など、明 らかに遺伝子が影響している場合を除き、名人級のパフォーマンスを手に入れるのに遺伝子が影響している証拠 は見つかっていないというものだ。

「遺伝子は介在しているのだろうが、それが明確になるまで、一線を越えることはできない」。何でも遺伝子で 説明しようとするヒトゲノムの時代にエリクソン氏は一石を投じているのだ。

 ただし、練習時間はさておき、個人差が成功の一因であると示唆する研究はいくつもある。

 例えば、「Psychology of Sport and Exercise」誌に3日付で掲載された論文によれば、プロのサッカー選手 になった人とならなかった人を比較した場合、子供のころの練習時間に違いはなかったという。両者の大きな違 いは、良い指導を受けた量だった。

PHOTOGRAPH BY STEFFEN SCHMIDT, KEYSTONE/AP

文=Dan Vergano

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