混迷のウクライナ、その歴史的経緯

2014.01.31
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2014年1月19日、ウクライナの首都キエフ。反政府派の集会のさなか、機動隊と衝突する参加者たち。2010年の大統領選では、ウクライナの有権者は地域的アイデンティティに基づいて投票。親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ氏が、東部の強固な支持で勝利した。

Photograph by Sergei Supinsky, AFP, Getty Images
 広がりを見せるウクライナの反政府運動が、「ウクライナが支持すべきはウラジーミル・プーチン大統領率いるロシア政府か、それとも欧州連合(EU)か」という現在の葛藤と結びついているのは明らかだ。だが、この国の歴史と地理を概観すれば、この問題がなぜ根深いものなのか、東欧と西欧のはざまというウクライナの不安定な位置をめぐる数世紀にわたる争いから、現在の国民感情と混乱がどのように生まれたのかを理解する助けとなるだろう。 国内を分断する線には歴史的背景がある。ウクライナ東部は17世紀後半、西部よりもずっと早く帝政ロシアの支配下に入った。東部ではロシア語を話し、ウクライナ正教を信仰する傾向が強いが、西部一帯ではウクライナ語が使われ、カトリックの影響が濃い。

 しかし、異なるのは地理や宗教だけではない。「あらゆる要素を考慮した上で最も大きな分裂といえるのは、帝政ロシアとソビエト連邦の支配を好意的にとらえる人々と、それを悲劇と考える人々との間にある溝です」と、米国のシンクタンク・大西洋評議会(アトランティック・カウンシル)でウクライナを専門に研究するエイドリアン・カラトニツキー(Adrian Karatnycky)氏は語る。

 17世紀、帝政ロシアとポーランド・リトアニア共和国との間の戦争により、国内の亀裂が深まった。ウクライナのうちドニエプル川の東側の土地が、西側の土地よりもずっと早く帝政ロシアの支配下に入ったのだ。その後、東側は産業と石炭産出の中心地「左岸」として知られるようになった。一方、ドニエプル川よりも西側の土地「右岸」はポーランドに支配されることになる。

 ロシアの女帝エカテリーナ2世の統治下で、ウクライナ東部のステップ地帯は、石炭と鉄の産出により経済の主要な中心地に成長。田舎で話されていたウクライナ語は皇帝からの布告で2度禁止されたと、カラトニツキー氏は話す(現在ではウクライナ語・ロシア語の両方がウクライナ国内で使われている)。しかし平和は長く続かなかった。1917年の共産主義革命の後、ウクライナは多くの国の例にもれず悲惨な内戦を経験し、1920年にソビエト連邦を構成する共和国となった。

 1930年代前半、ソビエトの指導者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)は農民を強制的に集団農場に組み入れるため飢饉を発生させ、その結果、飢餓で数百万のウクライナ人が死亡した。その後、スターリンは東部地域の人口回復のため、大勢のロシア人や他のソビエト連邦の住民をウクライナに移住させた。その多くはウクライナ語を話せず、ウクライナにほとんど縁のない人たちだった。

 米国の元ウクライナ大使スティーブン・パイファー(Steven Pifer)氏によれば、このことが「ウクライナ人の愛国感情が、東部では西部に比べて弱い」ことを説明する歴史的な理由の1つだという。

「環境特性地図にもウクライナの地域差を見ることができる。南部と東部がステップとして知られる肥沃な農地を有し、北部と西部は比較的森林に覆われているのが分かる」と語るのは、ハーバード大学歴史学教授で同大学ウクライナ研究所ディレクターを務めるセリー・プロキー(Serhii Plokhii)氏だ。同氏の研究所にはステップ地帯と森林地帯の境界を示す地図があるが、ウクライナを東西に分ける斜めの線が走り、2004年と2010年の大統領選での投票行動を表した地図と「非常に似通って」いるという。

 反政府運動が東部にまで広がっていることについて、パイファー氏は「運動が大きく変質している。当初の争点はヨーロッパについてだったが、民主主義と腐敗の一掃をめぐる抗議行動に発展している」とみている。

Photograph by Sergei Supinsky, AFP, Getty Images

文=Eve Conant

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