1922年、ツタンカーメン王の石棺を調べるイギリスの考古学者ハワード・カーター(彩色写真)。

Photograph by Harry Burton, Apic/Getty Images
 5月9日にインターネット検索をした人は、画面上に思いがけずセピア色を帯びた黄金の遺物を“発見”したことだろう。Googleのロゴはこの日、イギリスの考古学者ハワード・カーターの生誕138年を記念するアートに変わっていた。カーターは1922年に古代エジプトのファラオ、ツタンカーメンの墓を発見した人物だ。 ツタンカーメン王の墓を発見したことで、ハワード・カーター(Howard Carter)は一夜にして不朽の名声を得ることになった。しかしそれは、単なる幸運などではないと専門家たちは言う。

 ツタンカーメン王の墓について語るとき、「誰もが“思いがけず発見”という表現を使いたがるが、私はそのことにいつも軽い苛立ちを覚える」と、イェール大学のエジプト学者ジョン・ダーネル(John Darnell)氏は話す。

 約3000年前のツタンカーメン王の墓を発見するまで、カーターは考古学者として、古代エジプトの都市テーベ(現在のルクソール)の墓地遺跡の発掘に何十年も取り組んできたとダーネル氏は指摘する。

「カーターは方法論的なやり方で(墓を)発見した。(中略)必要な下調べはすべて行っていた。それも単純に墓の扉を探したわけではない。現在なら一種の景観考古学とみなされたであろう手法を用いていた」。

「カーターは、古代エジプトの埋葬地を築いた人々のことを実に詳しく研究していた。土地が高くなっている場所、道のついている場所を知っていて、雨嵐に襲われた一帯がどのように変化したかも知っていた」ために、長らく埋もれていた墓が見つかりそうな場所を特定することができた。

◆ハワード・カーターの驚異的な功績

 ハワード・カーターの方法論が綿密だったことは、ペンシルバニア大学のエジプト学者デイビッド・シルバーマン(David Silverman)氏も認めている。「その働きぶりは驚異的だ」と評する同氏によると、カーターの徹底した仕事は今なお現代の考古学者に恩恵をもたらしているという。

 カーターは、ツタンカーメン王の墓から見つかった5000点を超す遺物のすべてを写真撮影しただけでなく、絵画の素養を生かして、それらのスケッチも残した。カーターは「写真がつねにすべてを語るとは限らない」ことを知っていたとシルバーマン氏は述べている。

 それでも、「カーターの不注意をあれこれ指摘する声が定期的に上がるようだ」とイェール大学のダーネル氏は言う。例えば、ツタンカーメン王のミイラが発見当時、固まった樹脂によって石棺に貼りついており、取り出せなかったときのことだ。そのままでは新たに盗掘を受ける危険があった。

「まともなやり方では(樹脂を)はがすことができない。どうすればいいのか」とカーターは著書『ツタンカーメン発掘記』の中で述べている。

 そこでカーターは、王のミイラを砂漠の日光にさらし、樹脂を溶かそうとした。それが失敗に終わると、遺体を石棺から切り離した。

「カーターが1920年代に行ったことのせいで、ミイラは非常に劣悪な状態にある」と考古学者のザヒ・ハワス(Zahi Hawass)氏は2005年、エジプト最高考古庁を率いていた当時にナショナル ジオグラフィック誌の取材に対して述べている。

 それでもなお、「カーターはすばらしい仕事をした」とイェール大学のダーネル氏は評価する。「カーターの真の功績は、発見に心を動かされながらも、自分を抑え、非常に方法論的なやり方で仕事を進められたことだ。(中略)これほど略奪とかけ離れた行為もない」。

 一方、ペンシルバニア大学のシルバーマン氏は、カーターの大発見がもし現在行われていたら、発見した試料をもう少し慎重に扱っていたかもしれないと述べている。現代の考古学者は、CTスキャンやMRI(核磁気共鳴画像法)、DNA研究などの医療技術を利用できるからだ。「われわれが後知恵で彼の仕事にほんの少しけちをつけるとしたら、そのような点だ」。

◆カーターと「王家の呪い」

 ツタンカーメンの墓が見つかったというニュースが広まると、ハワード・カーターは一躍世界の有名人になった。

「カーターは名声にうまく対処したと思う」とシルバーマン氏は述べている。「彼にとって最も困難だったのは、その後に何をするかという問題だ。これには悩んだのではないだろうか」。

 カーターはその後、他の墓の発掘も行っているが、1922年のツタンカーメン王の墓に匹敵する大発見はなかった。イェール大学のダーネル氏によると、カーターにとって残念だったことの1つは、やがて癌により体調が悪化し、ツタンカーメンの墓発見に関する記録をすべて発表できずに終わったことだという。

「カーターはまず3冊分のすばらしい資料を発表している。しかし、自身が残したすばらしいメモやスケッチ(のすべて)を出版することはできなかった」とダーネル氏は述べている。

 カーターは1939年に癌で死去したが、自身の病がいわゆる「ミイラの呪い」や「王家の呪い」のせいだとはまったく考えていなかった。古代エジプトの王の眠りを妨げた者には必ず死が降りかかるという噂があり、それは王家の呪いと呼ばれた。「カーターは呪いが作り話だと知っていた」とシルバーマン氏は述べている。しかし、カーターの後援者だったイギリス人のカーナヴォン卿が、ツタンカーメンの墓が開かれた直後に亡くなったことで、噂はいっそう真実味を帯びることとなった。

「しかし、カーター氏自身が呪いを否定する何よりの証拠だった」とニューヨーク・タイムズ紙はカーターの死亡記事の中で指摘している。「彼は若いころから健康を害しながらも、50年近くをエジプトでファラオたちの墓を探し、発掘して過ごした。エジプトの呪いが事実なら、彼こそ呪いを受けた人物の代表例になっていたはずだ」。

Photograph by Harry Burton, Apic/Getty Images

文=Ker Than