パキスタンがイギリスのインド植民地の一部だった頃、氷河を源流に持つインダス川の水を農地に引くための水路網と小規模ダムをイギリス人が建設し始めた。1947年のパキスタン独立後は河川管理当局がこの水路網を拡大し、現在ではインダス川は北のヒマラヤ山脈から南のアラビア海に至る自然の水の流れというよりも、灌漑の必要なあらゆる場所に向かって東西に少しずつ分水路を伸ばす用水路といった性格を強めている。このような河川の分水は、世界各地の人口と食料生産量が急増する地域で一般的に見られる。
こうした人工的な川幅の抑制と支流の構築が実質的な原因となって、インダス川流域では長い雨期の大量の降水を保持する能力が以前と比べて低下している。
国際自然保護連合(IUCN)に所属する森林管理の専門家で、かつてパキスタン政府の森林担当官と猟区管理者だったターヒル・クレシ氏は、インダス川とその水路網は「世界最大の灌漑システムだ」と話す。
パキスタンのこの灌漑システムは乾燥した不毛の地を一大農業地帯に変貌させたが、欠点もあるという。キングス・カレッジ・ロンドンの地理学者でパキスタンの河川管理の歴史を研究するダーニッシュ・ムスタファ氏は、贅沢な暮らしと引き換えに自分の魂を悪魔に売り渡す男の寓話になぞらえて、「大規模な河川工事は基本的に“悪魔の契約”だ」と警告する。
この地域では数十年前まで、夏になると小規模な洪水が毎年のように発生していた。夏はモンスーンによる雨が降り、またヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の積雪が融ける量がピークに達する。
しかし現在では、インダス川とその周辺の天然の氾濫原や湿地帯が農業などの目的で人為的に作り替えられたため、洪水の数は減ったが、発生した時はこれまでよりはるかに大規模な洪水になるとムスタファ氏は説明する。
パキスタン、ラホールにある国際水管理研究所(IWMI)パキスタン事務所の水資源の専門家アサド・サルワル・クレシ氏は、「インダス川の水路には降水量すべてを吸収する空間が足りない」と懸念する。「元の水量を保持できるように、昔の姿を取り戻さなければならない」。
かつてモンスーンの季節には、インダス川沿いの湿地帯があふれた水の一部を保持し、また政府も、あふれた水を人の住んでいない地域に誘導していたが、それらの地域は現在では農地に変わってしまったとクレシ氏は語る。ムスタファ氏は、「人々は先を争ってこれらの氾濫原に住み始めた」と話す。
さらに、インダス川とその支流は世界で最も多量の沈泥を含む河川系の1つだという問題もある。川幅が広がらないよう工事が施された河川敷や水路にモンスーンによる降雨や雪融け水が押し寄せた時、沈泥が多いとそれらの水を保持する能力が低下する。IWMIのクレシ氏は、「パキスタンの河川のほとんどは、すでに沈泥であふれている」と語る。
ムスタファ氏をはじめとする専門家は、洪水が現在よりも頻繁かつ自然に起きるようにすることが、洪水を弱め、しのぎやすいものに変える上で有効だと主張する。ムスタファ氏は、「川幅が広がる余地を作る必要がある。川筋全体でなくとも、部分的に湿地帯を復活させるべきだ」と指摘する。
同時に、堤防の多くはそのまま残すべきだが、保守管理を改善する必要があるとターヒル・クレシ氏は提案する。そのためには河岸に沿って樹木を植えるのも一策だという。「私が政府の森林担当官だった1970~80年代には、アラビアゴムモドキ(地元原産の樹木)の種を撒いた。土壌の流出を防いでくれるし、川の氾濫に対する物理的な防壁にもなる。自然の堤防だ」。しかし、この20年間で堤防の森林や樹木の多くは枯れたり伐採されたりしてしまった。
Photograph by K.M.Chaudary, Associated Press