「古代のハロウィーンの様子を示す記録が無いため、数百年前まで続いていた風習に基づいて推測するしかないのだが」。ネルソン氏は2008年のナショナルジオグラフィック ニュースの取材でそう話している。
しかし、現在のフランスのコリニーで1890年代に発見されたケルト人の青銅製の暦の分析から、サーウィンは少なくとも2000年前には既に行われていたことがわかっている。それは、収穫と狩猟が一段落する時期にケルト暦の1年の終わりを祝う祭だった。
祭りに合わせて牛などの家畜を解体して皮を剥ぎ、祭りの期間中はその皮を身に付けて儀式を行ったと言われている。キリスト教以前の原始的な自然崇拝に関連した祭りであった可能性が高い。
古代ローマには、現在のドイツとフランスに当たる地域に住んでいた一部の部族が賑やかな儀式を行っており、その儀式では動物の霊と交流するために獣の首や皮をかぶって扮装していたという記録が残っている。
このケルト人の祝祭儀式の、かがり火を焚き動物の皮をかぶる慣習は近年まで残っていたとネルソン氏は指摘する。「このような儀式が、アイルランドとスコットランドの聖マーチン祭(11月11日に行われる聖マルティヌスを記念するキリスト教の祝祭)で行われていたことは確実で、これが古い暦ではハロウィーンに当たるものだったのだろう。家畜に余剰があることもあっただろうから、動物を殺すのも理にかなっていたと言える」。
サーウィンは、死者を偲ぶための夜でもあった。その夜、死者の霊は生者と共に過すと信じられていたのである。ここでも儀式の詳しい内容は不明だが、数百年前には、サーウィンで家族が先祖のために食事を供え、時には食卓まで用意していたという。
さらに、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校ケルト研究センターのベティーナ・アーノルド氏によると、サーウィンの夜には人々が変装し、いたずらや大騒ぎをしていたという。同氏は、「Halloween Customs in the Celtic World(ケルト世界のハロウィーン衣装)」と題した小論の中で次のように述べている。「若者たちは死者の霊に扮するために、マスクやベールを被り、あるいは顔を黒く塗り、白い装束や藁(わら)で変装した」。
このような扮装の目的は、祭りで騒ぐ人々を邪悪な霊から守ることだけでなく、訪れた家の住民をからかうためでもあった。スコットランドなどでは、死者に扮して騒ぐ人々が、食べ物を要求しながら家々を回る習慣があり、これが現在の「トリック・オア・トリート(お菓子をくれないといたずらするぞ)」の原型となった。
前出の聖フランシスコ・ザビエル大学のニルセン氏は、「当時の扮装には顔を黒く塗るなどしたものが多く、これは幽霊や悪霊を表現していた」と語る。
ウィスコンシン大学のアーノルド氏の論文によると、サーウィンでは生者と死者の境界が消え去っていたのと同じように、男女の境界も無くなっており、若い男性は女装し、女性は男装していたという。例えばウェールズでは、ハロウィーンに女装していたずらする若い男性の集団は“鬼婆(hags)”と呼ばれていた。またアイルランドの一部では、古代ケルトの生殖の象徴であるレア・バーン(Lair Bhan)という白馬の扮装をした男性が、サーウィンで集団を率いて賑やかに行進していた。
キャサリン・クラーク氏は著書「An Irish Book of Shadows(アイルランドの影の歴史)」の中で、レア・バーンの衣装は、白い大きな布と木製の首で作られていたと述べている。「中には精巧に作り込まれた首もあった可能性がある。扮装する男性は首の人形全体を肩に乗せ、あごを操ってカタカタと動かしていたようだ」。
サーウィンの衣装は多くの場合、くりぬいたカブの中にろうそくを灯したランタンが付き物だった。後にこの習慣はアイルランド系移民によって北アメリカに持ち込まれ、新大陸原産のカボチャを使った丸っこいランタンとして再現されることとなる。
Photograph by Jim Richardson
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