イグサが群落をつくる湿地帯。向かい側の山の斜面には天然のスギと広葉樹が混じる。

 京都というと古くから開けた場所というイメージがあるが、芦生研究林の場所は近畿圏でも指折りの不便な場所である。地理的には近畿北部の丹波高地に位置し、研究林の標高は最高地点で959mとそれほどでもないのだが、日本海からの季節風をまともにくらう立地のため、とにかく雪が深い。この地域は太平洋側と日本海側の生態系の接点であり、また暖温帯と冷温帯(※2)の気候がぶつかるところでもある。このような要因が重なって、ここでは植物の多様性がとても高い。そんなわけで、むかし中井猛之進という植物学者に「植物を学ぶものは一度は京大の芦生演習林を見るべし」と評されたほど、ここはとても興味深い場所なのである。

 しかし、こんなステキな場所だからこその苦労もある。たとえばそれは、貴重な自然を求めてやってくる市民の存在だ。芦生研究林の自然が有名になるにつれ、その数は近年増加している。個人的なグループでやってくる人たちもいるし、民間のガイドツアーに参加して、観光バスで芦生研究林を訪れる人たちもいる(※3)。新緑や紅葉の時期の人出はなかなかのものだ。大学の研究林で観光ツアーが催行されたりするのは、日本でもここくらいのものじゃないだろうか。特にいま、京都府北部に国定公園を新設する計画が進んでおり、芦生研究林はその中核となる予定である。このようなわけで、オーバーユース(観光客が増えすぎて、植物の踏み荒らし・地面の踏み固め・ゴミやトイレの問題)の深刻化が心配されているのだ。

 問題はそれだけではない。もしも僕が自然公園のパークレンジャーであれば、観光客を受け入れつつ自然を保護するというバランスを考える仕事に熱中すればよい。観光客に満足感を与えると同時に自然保護の効果が上がれば大きなやりがいを感じるだろうし、その自然公園が設立された目的にもかなうことだろう(上司にもほめられるだろう)。

 しかし現実には、僕は大学の准教授であり、この森は大学の教育と研究のための場所なのである。大学の教育と研究によって成果をあげることが僕のつとめだ。ということは、短絡的にいうと、大学に関係のない観光客が増えても減っても、職責の本質にはかかわらないことになる。しかし日ごろ、ふと気がつくと観光客対応に頭を悩ませるだけで一日がすぎていくようなことも多い。これでは自分の研究が進まない。このままではいかん、と焦りを感じていた。

広大な天然林の広がる上谷エリアには巨木が多い。谷沿いには湿り気を好むトチノキの巨木が。地元の中学生が6人がかりでやっと幹を一周することができた。

※2 日本の本州はほとんど温帯に属するのだが、温帯を細分すると、暖温帯と冷温帯に分けられる。暖温帯の植生は常緑広葉樹、冷温帯の植生は落葉広葉樹が代表すると考えるのが古典的な分け方である。これにも諸説あるので、この記事では深く触れません。

※3 芦生研究林を利用するには申請が必要です。詳しくはウェブページをご覧ください。
http://fserc.kyoto-u.ac.jp/asiu/

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