第9回 ニシオンデンザメと優しいイヌイット

 イカルイトで飛行機を乗り換え、さらに2時間。機内の窓から外を見下ろしていると、どこまでも続く広大な土地の中に、ゴマ粒みたいな集落が見えてきて、それがクライドリバーだった。日本のすべての田舎町が大都会に思えるほどの僻地だ。凍てつく風に縮み込みながらタラップを降り、簡素な空港の待合室に入ると、壁には「ホッキョクグマを撃つときはオスを狙ってください」というギョッとするようなポスターが貼られていた(子どもを産むメスはなるべく狙わないで、という意味である)。車に乗り替え、未舗装の一本道をはしっていくと、寒々とした海が見えてきた。港ではイヌイットの子供たちが石を投げたり、ロープにつかまったりして遊んでいた。バケツが1個、桟橋の上に置いてあって、中には解体したてのアザラシの肉が入っていた。

 今回の調査の目的は、ウィンザー大学(カナダ)のナイジェルたちと共同で、ニシオンデンザメの生態を調べることである。ニシオンデンザメは北極で見られる唯一のサメで、大きいものだと体長が6mにもなる巨大なサメだ。とはいえ、ホホジロザメに代表される獰猛なイメージとはずいぶん違っていて、背びれも尾びれもタラリとしていて、全く覇気が感じられない。そればかりか、釣り上げて手で触れても、何の反応も示さない。でもその割に目だけは怪しく緑色に光っているという薄気味悪いサメだ。

 私は2009年にスバールバル諸島(ノルウェー)でニシオンデンザメのバイオロギング調査を行い、このサメが「世界一のろい魚」であることを発見した。ニシオンデンザメの平均遊泳スピードはわずか時速1キロしかなく、体の大きさの違いを考慮して比較すると、これまでに調べられたどんな魚よりも遅かった。

 喰うために獲物を捕えねばならないサメとしては、これは致命的なハンディキャップのはずである。さらにおかしなことに、ほぼすべてのニシオンデンザメは、瞳からぶら下がる白い寄生虫によって、視力さえ奪われている。ところが不思議なことに、そんなハンディキャップをものともせず、ニシオンデンザメは北極の海で繁栄している。正確な個体数はわからないものの、調査をしている私の感覚でいえば、うようよといる。この奇妙なサメは、いったいどのようにしてエサを捕えているのだろう?

 それを明らかにするために、今回、私は初めて光源付きの動物用ビデオカメラを用意してきた。今までに私は、ペンギンを始めとしていろいろな海洋動物にビデオカメラを取り付けてきたけれど、すべて自然光に頼った、光源なしのカメラであった。この新しいカメラを使えば、ニシオンデンザメが深海でエサを捕るシーンを、世界で初めて映像に収めることができるかもしれない。

 私たちは港に停泊していた調査船「Nuliajuk」に乗りこんだ。船はその日のうちに出港し、10時間ほどかけて、今回の調査地であるスコット・インレットと呼ばれる入り江に到着した。鋭く切り立った岸壁が左右に遠くまで続いていて、川のようにも見えたが、水深は600~700mもあった。時々岸辺にはホッキョクグマがいるらしかった。

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スコット・インレット
スコット・インレット
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