第119話 低速ギアでも、手に汗握る落差
登りには、放した犬たちを戻してパワーをつけるよりも、下りの惰性を利用して登ってしまったほうが良さそうだった。
トーニャからの注意は、しっかりと橇をコントロールすること。
もしも、橇がコントロールを失ったら、橇は単なる落下物となって犬たちの背中に襲いかかることになる。
私は手に汗を握りしめ、崖に向かって走り出した。
崖に差し掛かり、犬たちの姿が一瞬見えなくなったと思ったら、いきなり橇が傾いた。
フットブレーキを踏みしめ、橇を落下させずに、しっかりと大地を捉えて滑らせなければならない。
ガガガーッと氷を削る音を立てて、橇は崖を下りていった。
下の平らな場所に出て、ほっとするのも束の間、その勢いを殺さず、次の崖を駆け上がってしまわなければならない。
頭数が少なく、犬たちに負担がかかる分、私は橇を押し上げた。
体の小さいアンが、背中を丸めながら、必死に踏ん張ってくれている。
2匹のオスたちが、しっかりと崖に這いつくばって、橇を引き上げてくれた。
崖を登り切ると、私は極度の緊張と一気に肉体を使った疲労感で橇から転げ落ちるように地面に倒れこんだ。
すると、橇から放した犬たちがしっぽを振って私の周りに集まってきた。
彼らは逃げたり、自由になって遊び回ってどこかに行ってしまったりするどころか、ちゃんと私たちを待っていたのだ。
そんな彼らを抱きしめて、頭を撫でて、再び橇に繋いで走り出すと、またも困難が立ちはだかった。
今度は、森を抜けて大きな山の谷間に広がる雪原に出たところで、立っているのも大変なくらいの強風が吹いてきたのだ。
積もり雪がパウダーのように巻き上げられて、目も開けていられない。
先頭を行くルーニーも足が止まってしまい、私は橇を降りてルーニーと共に歩いた。
容赦ない風が体に吹きつけ、氷の粒がバチバチと皮膚に刺さってくるようだ。
耳元では、ボーボーと恐ろしいほどの風切り音が鳴り、犬たちも不安がって、うぉんうぉんと鳴きはじめた。
もう少しで、再び風を遮る森のなかに入ることができる。
「それまで頑張れ!」
向かい風に立ち止まろうとする犬たちを引っ張って、森の中まで入ってくると、風はぴたりと止まり、辺りは一気に暗くなった。
低い位置で照らしていた太陽も落ちようとしていて、徐々に暗闇が私たちを包みはじめたのだ。
ヘッドランプを付けて、静まり返る森の中をひた走る。
犬たちの息づかいと橇が滑る音だけが聞こえてくる。
夜になっても、まだ先は長い。