第119話 低速ギアでも、手に汗握る落差

 悲鳴を聞いて、犬たちに目を凝らすと、アンが引きずられていた。

 耳が聞こえないために、マッシャーの指示が聞こえず、出だしが遅れてしまったのだ。

 と言うよりも、本来マッシャーの指示を聞いているのは、リーダー犬だけで、後続の犬たちはリーダーの動きに従っている。

 だから、耳が聞こえないことなど、本当はさほど問題ではない。

 責任があるのは、むしろ私の方だ。

 走ったあとの休憩時など、犬たちは肉球の間についてしまう雪玉を、夢中になって前歯でカリカリと器用に取っている。

 喉の渇きを癒すために、雪にかぶりついて、雪のなかに転がっている者もいる。

 だから出発前には、犬たちがまっすぐに並んでいることを確認しなければならないし、注意散漫になっている犬たちの意識を1つに集めておく必要もあるのだ。

 それを私は、怠ってしまった故に、アンが引きずられているのだ。

 私はとっさに、「ウオー(止まれ)」と指示を出して、フットブレーキを踏み込んだ。

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 犬たちは、何事かと後ろを振り返りながらスピードを落とす。

 すると、ひっくり返っていたアンが立ち上がった。

 そして、何ごともなかったような顔をして、前の犬たちに続いて走りだした。

「よし! アン、その調子」

 私は橇を止めることなく、そのまま加速した。

 しばらくすると、先行しているトーニャの橇が止まった。

 この先にある急な崖を降りて行くには、今の頭数ではパワーがあり過ぎると言うのだ。

 橇を、車で言うところの低速ギアにするには、単純に今の頭数を減らさなければならない。

 その場合、犬を橇から完全に放してしまうことになるのだが、犬によっては、逃げてしまったり、ここぞとばかりに喜んで、どこかへ遊びに行ってしまったりする可能性もある。

 けれど私は、犬たちを信じて、リーダー犬のルーニーとアン、それに、低速でも橇を引く力を維持できる体の大きいオスたちを2匹残して、その他の犬たちをラインから放した。

 アンを放さなかったのは、放したあとに、「カム!(来なさい)」と言っても聞こえず、こちらからつかまえに行かなければならないからだ。

 無論、突然自由になった犬たちは喜んで走り回って、先に崖を下りて行ってしまった。

 私は、その犬たちを心配することをやめて、目の前にある崖に集中した。

 橇で下りる前に、落差を確かめるために、まずは自分で下りてみる。

 高低差は5メートルほど。

 下には、凍った川があって、その川を斜めに横断して、また崖を登らなければならない。