File8 食べる喜び 中川明紀

最終回 小さい頃から大好きだった祖母の手づくりコンニャク 前編

 コンニャクは群馬の特産物である。2013年の群馬県のコンニャク芋の収穫量は約6万5000トン。実に全国の約92%を占めている。しかし冬を越せず、必ずしも気候には適していないコンニャク芋が群馬でつくられるようになったのはなぜだろうか。

 コンニャク芋の原産地はインドシナ半島といわれている。日本への伝来は諸説あるが、食用としては6世紀頃、仏教とともに中国から伝わったとされている。当初は貴族や僧侶の間で食されていたが徐々に大衆化し、江戸時代の頃にはコンニャク芋を乾燥させて粉にする技術も確立されて広く食べられるようになったという。

 この技術を確立したのが群馬と同じ北関東、現在の茨城県である水戸藩だ。製粉化することで原料の貯蔵や長距離輸送が可能になり、水戸藩は専売権を得て販売した。これが明治に入って解禁となり全国に広まったという。それが群馬で発展した理由はどうやら養蚕にあるようだ。

 群馬県は、2014年にユネスコの世界遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」に代表される生糸の名産地でもある。総生産量こそ減ってはいるが、記録が残っている明治時代以降ずっと繭は長野県に次いで全国2位、1954年以降は1位の生産量を誇り、現在も国内産の約45%が群馬でつくられている。蚕は春から夏にかけて飼育するのだが、温度や湿度に敏感で風通しのよい場所が適す。

祖母のコンニャクを食べる甥。つまり、祖母にとってのひ孫たち。(写真クリックで拡大)

「昔の農家はどこも家の2階でお蚕さんを飼育していたんだよ」と祖母が言う。「風通しをよくするために窓は木の板で開け放しできるようになっていてね。春から夏はお蚕さんを育てる。だけど冬になるとお蚕さんがいなくなるから、そこにコンニャク芋を貯蔵したんだよ。1階には囲炉裏があるから、その熱が昇って貯蔵にはちょうどよかったんだろうね」

 いま、祖母が住んでいる家は10年ほど前に新築したものだ。その前の家、つまり私が子どもの頃に過ごした家は確かに2階が蚕を飼育する場所になっていた。なんとなく行ってはいけない雰囲気だったのだが、大人の目を盗んで上がるとやわらかい日差しの中に無数の白い繭があって独特の生臭さが漂っていた。

「居間に掘り炬燵があったでしょう? あれはもともと囲炉裏としてつくったものなのよ」と母が教えてくれた。その掘り炬燵は炭を入れて板で蓋をしたもので、祖父が時々炭を足していた。ちょっとこわい炬燵なのだが、囲炉裏としてつくったのであれば納得である。その家は母が8歳の時に建ったそうで、その前の家は広い土間に囲炉裏があったらしい。

 こうした家のつくりも手伝って、多くの養蚕農家がコンニャク芋の栽培を取り入れた。しかし、群馬に限らず養蚕業は高度経済成長期を境に衰退の一途をたどる。それにともなってコンニャク芋が生計を支える作物として生産を伸ばしていったのだ。

「ただ、芋からコンニャクをつくるとなると誰でもできるものでもなかったんだよ」と祖母。続きは、実際につくってもらいながら聞くことにしよう。

つづく

中川明紀

(撮影:森山将人)

聞き手・文=中川明紀(なかがわ あき)

講談社で書籍、隔月誌、週刊誌の編集に携わったのち、2013年よりライターとして活動をスタート。インタビュー記事を中心に、雑誌や電子出版物で活躍している。Webナショジオでは連載「世界魂食紀行 ソウルフード巡礼の旅」を執筆。