第83回 トム・ブラウンの教え

 ひとつめは「不快さを無視せよ」。

 その解説を意訳すると、以下のようになります。

「寒い、汚れる、臭くなる、虫にさされる、そして汗をかく……、それらは単なる不快さにすぎない。ウィルダネスという劇場に入るための入館料のようなもので、避けることはできない。が、自分がしていることを本当に楽しんでいるなら、ほとんど気にならないだろう……真の危険がないにもかかわらず、不快さが気になるとしたら、それはいま自分がしていることに没頭していないといえるのではないか……」

 そして、ふたつめは「子供になれ」。

「子供たちこそが、最も優れた自然観察の先生である。子どもはいつも、その瞬間に生きている。過去を気に病むのでもなく、未来を心配することもない。名前や判断よりも、体験そのものに興味がある。濡れたり、汚れたりなんて気にしない。子供というものは、限りない好奇心と胸のドキドキをもって、冒険にのめり込むものだ……」

 自然写真を撮る上でも、きっとこのアドバイスは当てはまるような気がします。

 目の前のものが何であるのか、先入観を捨て、子供の頃のように、多少の不快さなんて気にしないぐらいに没頭することで、見えてくるものがある。

 もちろん、身の危険を避けるのは当然のことで、ジムは、その湖に危険が潜んでいないということを正確に知っていたのでしょう。

 しかし、その姿をみて思わず驚いてしまったということは、ぼく自身、大人の殻をぬぎきれていない、撮影に対してまだ真摯になりきれていないことの裏返しだ……と気づかされてしまったのです

 ちなみにその章の最後は、自然観察のもっとも偉大な挑戦の例として、イギリスの画家であり、詩人でもあるウィリアム・ブレイクの次の言葉が引用されています。

「ひと粒の砂の中に世界を、野の花の中に天国を見いだすこと。手のひらの中に無限の広がりを、そして、1時間のなかに永遠をつかみとること」

 ジムは雲の撮影を終えると、岸で待つぼくの方へと、ふたたびバシャバシャと音を立てながら歩いて戻ってきました。

 そして、何事もなかったかのように、濡れたスニーカーとズボンのまま車に乗り込んで、スタジオに向かって走り出しました。

 そのとき撮った雲の写真が、その後発表されたのかどうかはわかりません。

 ただ、ぼくはその後、何年経っても、湖のなかをまっすぐに歩いていったジムの姿が、目に焼き付いて離れないのです。

つづく

大竹英洋

大竹英洋(おおたけ ひでひろ)

1975年生まれ。写真家。一橋大学社会学部卒業。1999年に米国のミネソタ州を訪れて以降、北アメリカ大陸北部に広がる湖水地方「ノースウッズ」の森に魅せられ、野生動物や人々の暮らしを撮り続けている。主な著書に『ノースウッズの森で』(「たくさんのふしぎ傑作集」)、『春をさがして カヌーの旅』(「たくさんのふしぎ」2006年4月号)、『もりのどうぶつ』(「こどものとも 0.1.2.」2009年12月号)(以上、すべて福音館書店)などがある。また、2011年3月NHK BSの自然ドキュメンタリー番組「ワイルドライフ カナダ ノースウッズ バイソン群れる原生林を行く」に案内人として出演。近著は「森のおく 湖のほとり ノースウッズを旅して」(月刊 たくさんのふしぎ 2012年 09月号)
本人によるブログは「hidehiro otake photography」