第5回 “楽園の人類学”の扉はどのように開かれたのか

 親が研究者で、自分も研究の道に進んだという人はわりといる。その際に、同じ分野というのもあるだろうが、どちらかというと別のジャンルをという人の方が多いような印象を持っている。あくまで印象論だが。小野さんの場合、それが「対極」になるように作用したようだ。

 では、「楽園の人類学」の扉はどのように開かれたのか。ミクロネシアのファイス島の遺跡研究で共同研究者にもなっている印東道子教授(国立民族学博物館)が、ここで登場する。

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「印東先生が北海道東海大学にいらして、私、高3のときに学ラン着て、会いに行ったんです。オセアニアのことをやってる先生が近くにいらっしゃるってことで。山の中に大学がありまして、バスですごい揺られるんですよ。私、なぜかラムネを先生の部屋に持っていったんです。飲んで良いですかと聞いて、開けた瞬間に全部噴水みたいに飛び散っちゃった思い出があるんですけど、それが最初の出会いでした」

 なにかよく分からないが、いまだに語られる強烈な出会いであったことは間違いないようだ(笑)。

「──実は、その時、文化人類学をやりたいと考えていました。現在の島の人たちの生活だったりとか、とにかくそういう人たちと仲良くなって、いろんなことを知れたら面白いなと。でも、印東先生に、今オセアニアをやりたいんだったら、一番面白いのは考古学だと言われて。実は、知識なしにお話を聞くのもよくないと思って、行きのバスでオセアニア通史みたいな本を読んでいたんです。最初から読むものですから、まず先史時代じゃないですか。で、ちょうど読んでいたとこだったんで、『それはラピタの話ですか』と知ったかぶりをしたら、えらい感動されて『高校生のくせにラピタを知ってるのか』と」

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 そうやって、その気になって興味を持ったのが、今の小野さんのスタート点だった。とはいえ、まっすぐにオセアニア、というわけにはいかなかった。

「大学では、まず学部生の時にフィリピンの調査に参加させてもらいました。あと、やはり、考古学をやるなら、せっかく日本人なんだし、日本の発掘技術とかやり方は学んでおく必要があると指導されて、夏休みとか長期休暇には日本の現場にも入っていましたね。半分バイトでやるんですけど。特に大学院のときとか」

 ここで重要なポイントがひとつ。

 小野さんの研究は、時期にして数万年前から数百年前の遺跡を扱っている。この時期は、日本の学問の伝統では、人類学と考古学が扱う両方の年代にまたがるものだ。そのあたりの事情は国立科学博物館の海部陽介さんにお話を伺った時にも触れた。でも、大切なことなので、ここでも小野さんの観点から語ってもらおう。