第1回 エボラ出血熱と、バイオテロ対策と、

 入り口まではだれでも立ち入れるものの、研究室がある上の階に行くためには、IDを持った人と一緒にゲートをくぐらねばならない。BSL-3(バイオ・セーフティ・レベル3、扱うことができる病原体の危険のレベルが上から2番目)の表示があって、身が引き締まった。

 安田さんの新興感染症学分野の研究室は、一見、普通の生物学・医学系の研究室と変わりない印象だ。それもそのはずで、ウイルス研究のための諸々の実験機器は、ゲノム研究だとか、今、流行の幹細胞の研究だとか、他の生物学・医学研究で使われるものと重なる部分が少なくない。素人がぱっとみた限りでは、生物や医学の研究室だろうな、くらいの印象になる。

長崎大学熱帯医学研究所教授の安田二朗さん。エボラ出血熱やラッサ熱などの新興感染症学の研究者だ。(写真クリックで拡大)

 安田さんは、助教や大学院生がいる大部屋の奥にある教授室で、まずはこの「エキゾチックな研究所の謎」から説き起こしてくださった。

「第2次大戦中の1942年(昭和17年)、当時、長崎大学じゃなくて、長崎医科大学なんですけれども、そこに東亜風土病研究所っていうのが開設されています。最初、風土病研究所だったんですね。古くは江戸時代から長崎は海外に対する門戸だったので、いろんな病気がまず長崎に入ってきたっていう経緯もあって、東亜、東南アジア、東アジアのほうからの感染症が想定されていたわけです。それで、戦後、1967年にもなりますと、東亜風土病研究所という名前がなじまなくなってきたので、広く熱帯地域の感染症研究をするということで、熱帯医学研究所と名前が変わりました」

(写真クリックで拡大)

 さらりとまとめるとそういうことになる。

 間に、原爆によってまさに焼け野原になってしまったキャンパスや病院を復興するために大きな努力が払われたことは間違いないのだが、それはまた別の大きな物語だ。

 東亜風土病研究所から、熱帯医学研究所へ。

 アジアの限定ではなく、熱帯を広く見るようになったのは、グローバリゼーションの影響だろう。風土病から感染症一般というのもかなり大きなジャンプだ。いや、そもそも、風土病というのは、どういうものが想定されていたのだろうか。