第3回 収容所から脱出し、1600キロを徒歩で逃げたアボリジニ3少女
1931年、3人の幼いアボリジニの少女が強制的に家族から引き離され、苛酷な環境の先住民収容所に送られた。オーストラリア政府が、数千人の子供たちを親元から隔離する政策を行っていたからだ。
しかし、8~14歳の3人はすぐに脱走し、全長1600キロに及ぶウサギよけフェンスに沿って、灼熱の西部砂漠地帯を歩き通し、故郷にたどりついた。
ウサギ隔離政策と先住民隔離政策
ウサギはオーストラリアに元々いた動物ではない。1859年、英国人入植者オースティンが24匹のウサギを野に放った。「少しばかりウサギを放したからといって、害もないだろう。ちょっとした狩りもできるし、故郷の雰囲気も味わえるし」。だが、ほどなくウサギは大陸全体に疫病のごとくはびこった。
1901~07年、オーストラリア政府は世界でも類を見ない、大がかりな外来動物の封じ込め策を実施した。オーストラリアの西部全域を、全長3200キロものフェンスで封鎖してウサギの侵入を阻むのだ。地域全体を隔離するというこの大胆な作戦は、失敗に終わった。ウサギはとっくにフェンスを越えていたのだ。
このフェンスは、当時の政府が行っていた、もう一つの隔離政策を象徴してもいた。
オーストラリアの先住民アボリジニに対する、白人入植者たちの態度は、人によってさまざまだった。劣った民族と考える者もいれば、アボリジニを白人社会に同化させ、受け継がれてきた伝統文化を「除去」すればよいと考える者もいた。またアボリジニに対して寛容と理解を示す人々もいた。いうまでもなく、混血の子供もたくさんいた。それは当時のオーストラリアで最大の対立を生んだ問題だった。