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- ナショナルジオグラフィック日本版
- 2013年7月号
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トランシルバニア 草香る丘陵
ルーマニア中部に広がるトランシルバニア地方では、中世さながらの農村の暮らしが今も息づいている。
吸血鬼ドラキュラのモデルとなった人物の出身地としても知られる、トランシルバニア地方。ここはルーマニア中部のカルパチア山脈に位置する、欧州有数の植物の宝庫だ。一帯では、1平方メートルの牧草地に最大50種もの草花が生えている。
人と自然が生んだ“奇跡の草地”
この奇跡のような植物の楽園は、自然に生まれたものではない。人々が丹精して作りあげたものだ。毎年夏には草刈りを欠かさない。手入れを怠れば、牧草地は数年でやぶや下草に覆われてしまうだろう。
今のところ、このトランシルバニアの牧草地では人間と自然の、いわば共生によってその美しさが保たれている。
自然の生態系とそこに暮らす人間との関係を研究する「エスノエコロジー」の専門家ズォルト・モルナールらの調査によれば、トランシルバニア地方の村ジメシュの住民のうち、20歳以上の大人は平均120種以上の植物を見分け、名前を言えるという。
幼い子どもでも、自生する植物の約半分を知っている。「この土地の人々の暮らしが、今も自然と密接にかかわっているからです」とモルナールは語る。
モルナールによれば、「日当たりが悪い」「じめじめした」「斜面がきつい」「木が多い」「コケが多い」など、生態系を分類する語彙がこれほどきめ細かく発達している土地は、ほかにはなさそうだという。
「こうした語彙の数は世界の平均では25語から40語程度だし、多くても100語ぐらいです。ところがジメシュでは少なくとも148語はあることがわかっています」
村を出て行く若者たち
だがこの土地の人々は決して豊かなわけではない。握手を交わすと、男女を問わず誰の手もごつごつしていて、日々の労働の厳しさを物語る。
トランシルバニアの農家の年収は、農業以外の仕事の収入を合わせても世帯当たり4000ユーロ(約52万円)程度だ。浴室のある家は半数にも満たない。車を買える余裕のある人が少ないため、馬の価格は高い。
1947年から89年まで続いた共産主義政権の時代、トランシルバニアの人々はずっと牧草を刈り、家畜を飼って暮らしてきた。だが89年の末、革命によりニコラエ・チャウシェスクの政権が崩壊。集団農場は解体され、土地は以前の所有者に戻された。住民たちは、共産主義体制以前に営んでいた小規模農場の経営を再開したが、90年代半ば以降、こうした農場は衰退し始めた。高齢化が進んだためだ。
若者たちは農作物を育てたり、都会で働いたりするほうが、もうかると考えるようになった。ノルウェーやスウェーデンの建設現場で2カ月も働けば、トランシルバニアで土地と家を買えるくらいは稼げるのだ。トランシルバニア各地の集落では家畜の数が急激に減っている。
家畜が減ったため放置された牧草地には、森が再びじわじわと攻め入ってきた。
「これからは荒れ果てる一方でしょう」
地元の女性は、目のさめるように美しい周囲の丘陵地を片手でゆっくりと指し示しながら言った。
※ナショナル ジオグラフィック7月号から一部抜粋したものです。
「牧歌的とはこういうことです」と説明をつけたくなるような写真の数々。人々の暮らしは豊かなわけではないと言いますが、やはりどこか惹かれるものがあります。搾りたてで無殺菌の牛乳を、なぜ町の人々は買いたがるのかと尋ねられた老人が、こう答えます。「まじりけのない、本物の牛乳だからですよ。都会の暮らしが失ったものの一つです」。私たちはほかに何を失ってきたのか、考えさせられる特集でした。(編集M.N)