第13回 パタゴニア追想記 その(1)

 わりあい小さな氷河の開口部にゾディアック(※)で接近していったことがあったが、氷の壁にあと約100メートルぐらいまで接近したところでエンジンの音の反響が刺激となったらしく500トンぐらいの氷塊が落ちてきた。小さな“津波”状のものがきて水兵らと乗っていたゾディアックが垂直に近いぐらい反り返った。転覆したら何人かは低体温死だろう。なにしろ当時の防寒着は綿入りで表面が固いごわごわのものであった。

 その航海ではもうひとつ別の小さな氷河の上にまで登った。氷河の上はまだらに灰色に汚れていて、一面にクレバス状の巨大な亀裂が連続していて非常に危険だった。場所によっては平坦なところもあったが、全体がとにかく目に見えないスピードで動いているのだな、と改めて感じることができた。

 氷河にも生物がいる。感動的なのはチリの水兵が「氷河虫」と呼んでいた体長3~4センチの昆虫で、これは必ず氷河の上流にむかって進んでいる。下流にむかえばやがての行き先は海であり、死である。上流に進めば仲間と会える。雌は雄と、雄は雌と。そして氷の世界でささやかに繁殖しているのである。

 この「氷河虫」を人間がとりあげて素手で触ったりなどしてはいけない。人間の体温がこの虫には熱すぎて焼け死んでしまうからだ。

氷河全体はこのようにゆるい逆三角形をしている。(写真クリックで拡大)(撮影:椎名誠)
※レスキュー艇などにも使われるゴムボートの一種。