それより前の1990年のことだが、私は科学者チームの一員として、アメリカの南極観測基地があるマクマード湾付近のロス海で、遠隔操作の水中探査機を利用した海氷下の海底調査を行なった。

 ヘリコプターで氷縁まで行ってみると、棚氷はまるで大理石のように硬そうで、深いインディゴブルーの海に囲まれた輝くアラバスター石の平原のようだ。ところが、南大洋の縁近くに立ってみると、海の絶え間ない鼓動を足元に感じた。氷をそっと押し上げてはまた沈む、穏やかな呼吸のようなうねりだ。

 私の防寒ブーツの下には厚さ数メートルの氷、そしてその下には深さ305メートル以上に及ぶ、水温マイナス1.8度というどこよりも冷たい海。人間にとってはまさに極限の環境だ。

 しかし、そこにすむ生き物たちにとって、この真っ暗な海の中ほど快適な場所はない。海面付近には、夏の間は金茶色の珪藻類が豊富に繁茂し、エビに似たオキアミ、翼足類、さらに小さい草食の水生動物まで、実に豊かで多様な微小動物が生息している。

 さらに深いところには、ほかには類を見ない種類の魚がいる。「アイスフィッシュ」、あるいは不凍魚とも呼ばれる魚で、60前後の種がある。この魚の体液には「不凍たんぱく質」が含まれており、極寒の海のなかでも体が凍結しない。脊椎動物のなかで唯一ヘモグロビンと赤血球を持たず、骨格系がきわめて軽量という特徴もあることから、骨粗しょう症や血液疾患などの研究者の間でも大きな関心を呼んでいる。

この連載の前回の
記事を見る

この連載の次の
記事を見る