第9章 北極点単独行――冒険家にとっての記録 後編

(承前)
 しかし白熊は、テントを揺さぶり、部分的に裂いたけれど、植村の体に直接襲いかかりはしなかった。テントの外で、アザラシの凍肉を食べ、鯨のラードを食べ、犬用のペミカンを食べ荒した。

 絶対に身動きしてはならない。呼吸音にさえ、気づかれてはならない。植村は全身にふき出すような汗をかきながら、身動きせず、長い長い恐怖のときを過した。

 不意に、足音が遠ざかっていった。白熊がゆっくりテントから離れていった。助かったのだ。状況からすれば、奇蹟的に、といってもよかった。

 植村はしかしあわててテントの下から這い出そうとはせず、十分に時間を置いてからシュラフのファスナーをはずした。テントの外に出てみると、「輪カンジキほどの大きさの、爪の方が広く踵の方が小さい白熊の足跡が点々とついていた」。ドッグフードの入ったダンボールがひっくり返され、鯨の脂肪を入れたポリバケツが、紙屑のようにズタズタに切り裂かれていた。

 1974年から76年にかけての北極圏一万二千キロの旅でも、何度か白熊に遭遇したが、このように不意打ちにあったのは初めてのことだった。肝が冷えるほどの恐怖を植村は体験した。