もちろん、願望の強さに比して、あまりに準備不足ではないか、飛び出せばいいというものじゃないだろうと、誰もが思ってしまうだろう。64年という時代を考えれば、まだまだ外国へ行くのは大変なことだった。貿易自由化によって、海外への観光旅行の道がわずかにひらかれた折とはいえ、為替レートは1ドル360円で、若者が気軽に出かけられるわけではない。だとしたらいっそう、準備不足の観はまぬがれない。

 植村はアメリカまでの船の片道切符代10万円をつくるのが手いっぱいで、あとはアルバイトで稼いだ4万円をドルに替えた110ドルが所持金のすべてだった。

 要するに直観に頼って前後をあまり考えずに実行すること。それが植村直己流だった。ただし、後で血のにじむような努力をして帳尻をきちんと合わせるのを含めて、植村流なのである。それが果たされなければ、人びとが自分を信用しなくなるということを、植村はよく知っていた。そのような植村流が、ここに始まっているのである。

 ところで、私はこの初めての実家訪問で、植村が自分の身辺を語るときには、必ずしもすべてを真に受けてはならないと、改めて頭に刻みこんだ。植村は、家は但馬の寒村の貧乏農家で、自分は7人きょうだいの四男坊、はみ出し者であると常々語っていた。当っているのは但馬の農家という点ぐらいで、あとはよほど修正する必要があることに気づいて、私はいかにも植村らしいと微笑せざるを得なかったのである。寒村ではなく、古くからひらけた農村の、堅固な生活をたもちつづけている、存在感のある農家だった。

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