第3話  JAMSTECへの道 後編

その2  ヌルすぎるぞ、オマエら!--反抗期の博士課程

そして「博士号ごっつあん」となると、当然その先の「職」をどうするか、という「若手研究者キャリアパス問題」を考えないといけないわけである。「よっしゃ、いっちょ、Thermophiles’96で、グローバル就活するかー!」という思いも多々あったのだ。

もちろんThermophiles’96には、ジョン・バロスをはじめ、ワシントン大学の友人達も来るし、アメリカ留学時代にいろいろ顔見知りになったアメリカやフランスの研究者もたくさん来るし、この機会に「ワシントン大学のポスドクでも、他のアメリカやフランスの大学のポスドクでも、バッチこーい!」と意気揚々だった。

26歳のボクやるね。いいよ、いいよ、そのバイタリティー。

そのバイタリティーの源泉とも言える、結構バカにできない重要な前提があったのだ。この国際会議の参加費やら交通費はすべて、極貧学生だった自分の生活費から捻出しているという点なのだ。

当たり前の話だけど、ボクは修士課程の学生の時から、親からの金銭的な援助は一切受けていなかった。もちろん家がビンボーだから当然なのであるが、例え裕福であったとしてもおそらく同じことだったと思う。同級生達は、既に一人前の社会人として働いているのに対して、「生命の謎」なんて人様の役にも立たない「世迷い事」にうつつをぬかしている以上、自分の生活は自分で何とかするというのが、「オトナ」としての最低限の行いだと思っていた。