植村自身の言葉を聞こう。彼は、冒険の方法、自然への適応と順化についてまことに淡々とした調子で語っている。

《私はもともと金がなかったから、何とかして現地の人に受け入れてもらわなくちゃやっていけないという実際的な事情がありました。厳しい自然のなかでサバイバルの技術を身につけるということはひとまず別にしても、食と住で、そして衣も含みますが、エスキモーの人たちに頼らなくちゃなりませんでした。
 頼る以上は、自分の勝手にするわけにはいきません。自分の都合とか理屈をおさえて、エスキモーの生活にできるだけ溶け込む。それが結果としてけっこう極地への順化、適応に役に立ったと思います。そして彼らの生活に適応していきますと、そこには極地での生活の長い歴史が生んだ貴重な知恵があるわけですから、おのずと、極地という自然への適応になっていくんです。》(『植村直己の冒険学校』「たどってきた道」文藝春秋)

 まずエスキモーの人たちに現地で受け入れてもらう必要があったと語っているけれど、1972年9月にグリーンランドのシオラパルク村に入ったのは、犬橇の操縦を学び、身につけるというはっきりとした目的があった。それが南極大陸単独横断という夢を実現するための、最低の必要条件だった。そして、エスキモーの生活に溶け込んでいった結果、極地の自然への適応につながった、というのは偽りのない順序だろう。

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