平安中期から鎌倉時代が終わるまでの約300年間は、人口600万から700万人の時代が続く人口低迷期だった。これが再び、人口増加に転じるのは室町時代のことだ。

「荘園制度が形ばかりのものになり、代わって荘園役人から成長した在地領主の力が大きくなっていきます。やがて在地領主の中から大名が生まれ、封建社会の枠組みができてきます。ここで生まれたのが貨幣経済という仕組みでした。年貢は、現物より貨幣でおさめさせるほうが、荘園領主にとっては都合がよかったため、全国へ広がっていった。こうしてマーケットが整い、拡大していったのです」

 大名同士が争いを始め、戦国時代に入ったことも、発展に弾みをつけた。築城のための土木技術が農業用水に応用されるなど、さまざまな農業技術も進んだ。また政治的な再統合も起こり、16世紀半ばまでに、国内は経済面でも活性化していく。

 さらに江戸時代に近くなると、農民が勤勉に働くためのモチベーションもさまざま生まれてくる。たとえば貨幣だ。主に領主だけが、年貢の代わりに手にすることができた貨幣が、このころになると農民にも少しずつ広まっていく。

「それが生産増大のインセンティブになっていくんです。しかも狭い土地でより生産性を上げたいとなると、当時としてはたくさんの人が住んでいた日本では、労働集約的な農業を目指すしかない。そしてこれに稲作が向いていたんですね。だらだら働く人より、熱心に働く人がほしい。人を雇うより、家族経営主体の農業に移っていった」

 規模は小さいが、土地の生産性は高い。そんな小規模な家族経営型農業のための人手を増やそうと、人口が急激に増えていった。

「こうやって人口成長と、経済成長が同時に起きていきます。もちろん人々は猛烈に働きました。狭い農地に、勤勉な労働力を投入する、そんな日本ならではの農業がここに成立していくのです」

 人口曲線の3つめのピーク。これがその登り坂の始まりだった。

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