先にふれた1万2000キロの旅の記録である『北極圏一万二千キロ』(文春文庫)は、植村の著書のなかでも私はとりわけ愛好しているものだが、そこで次のようなくだりがある。

 グリーンランド西沿岸の南の端に近いヤコブスハウンを出発して約1カ月後、ソンドロ・ウパナビックを出て北へと犬橇を進めているとき、植村はちょっとした手違いから犬たちに逃げられてしまった。めざすウパナビック村までまだ60キロ以上ある。暗闇と寒気と氷のなかに取り残され、さすがの彼も氷の上にへたりこんだ。

 犬橇旅行で犬を失なうことは、直接、死の危険につながる。彼は結婚したばかりの公子夫人の顔を思い浮べて心を落ち着かせ、橇を捨て、必要最小限のものをザックに詰めて、歩くことを決意する。そのとき、リーダー犬のアンナが5頭の犬を連れて戻ってきた。これで、とりあえず命だけは助かった。6頭に減った犬に橇をひかせ、ウパナビックにたどり着く。町の灯の見えるところにテントを張り、植村はフラフラと歩いて町まで行く。罐ビールを半ダース買ってテントに戻ってくる。ヤケになって、何も考えずにビールを次々にあけ、いつのまにかそのまま眠りこんだ。そして夜中に目が覚める。

《深い静寂があり、ときおり風の吹きぬける音だけが聞えた。私は暖かいコンロの火を見つめながら、過去のことを想い出していた。これまでも単独登山や単独の冒険行で、テントの中や雪洞の中で待機しなければならないようなとき、私はよく過去の想い出にふけり、それが一つの癖になった。それは単独行にのみ許される、楽しく、ときには甘美でさえある時間だった。今、楽しい想い出にふけっているような状況ではなかったにもかかわらず、なぜか過去の出来事が次から次へと脳裡によみがえってきた。》

 そして彼は、主として4年間の世界放浪の旅での、印象深いシーンを思いだす。思いだしながら少しずつ意欲をとりもどし、犬を補強して1万2000キロの旅をつづける決心をする。

 テントのなかの孤独は、彼にとって限りない慰めであるばかりでなく、行動をつづける決意のみなもとでもあった。ひとりでいることが、エネルギーが湧き出す、源泉でもあったということができる。

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