たとえば、1974年12月から76年5月にかけて行なった、北極圏1万2000キロの旅。グリーンランド(デンマーク領)を北上し、スミス海峡を渡ってカナダ北極圏に入り、アラスカ(アメリカ合衆国)のベーリング海峡に面したコツビューに至る。北極海を中心にして地図を見れば誰もが実感できるだろうが、途方もない距離の、氷と雪の世界である。そこをエスキモー犬に橇をひかせて走る。ひとりでやることの恐怖や不安はないのだろうか。

 ひとりで犬橇を走らせるという、技術上の困難さはひとまずおくとして、氷の上をひとりで行き、夜になればテントを張ってひとりで眠る。孤独であることの心もとなさはないのだろうか。私にはそれが疑問で、私的な話のなかでも何度か尋ねたし、活字になるインタビューでも質問してみたりもした。

 植村は答えている(『植村直己と山で一泊』ビーパル編集部・編、小学館文庫。なお、文中で明らかにしているように、私はこのときインタビュアーをつとめた)。

BP(ビーパル) われわれが勝手に想像してみますと、北極のだだっ広い氷海の上に、夜、テントを張ってポツンとひとりでいる。そんなところでひとりでシュラフに入って横になっていると、いろんな妄想がわいてたまらないような気がするんですが。
植村 たとえばブリザード(地嵐)が来たりすると、動けなくなって、二日も三日もテントの中でじっとしているでしょう。そういうときにね、妄想というんじゃなく、過去の出来事が頭の中をサーッと流れていくんです。思い出そうとしてるんじゃなく、だから年代を追って出てくるんじゃないんですが、たとえばアマゾンを下っていたときのシーンとか、初めて山に登ったときの光景とか、ふだんは少しも考えていなかったようなことが、向こうから次々に現れてくるという感じで出てくるんですね。いろんな過去の断片が流れていく。忘れていたようなことがはっきり出てくるから、前には気づかなかったことがそのとき不意にわかったりすることもあります。
 それはすごく楽しい時間でしてね。妄想に苦しめられるどころではなく、なんか充実した楽しさですね。だから孤独とか淋しいとかいう感じは全然ないんですよ。》

 私はこういう発言を聞いて、自分なりに納得するものがあった。孤独であることが淋しくないとすれば、たしかに孤独には一種の楽しさがある。それを植村は卒直に伝えようとしているのだ。

この連載の前回の
記事を見る

この連載の次の
記事を見る